くすりゆびひめ【せりふ三題噺】
私は、自分が濡れていることより、傘を失くした事実の方がずっと堪える。
最近買った傘をとても気に入っていた。柔らかく安っぽく見える質感だけれど、溌剌と雨水を弾くビニール傘。くたびれたサラリーマンが帰宅直後にネクタイをほどくように、スルスルと流れ落ちていく雨粒に、顔を見上げずにはいられない。
そんな素敵な傘だった。
ただひとつ不満を挙げるとすると、今この手に持っていないということだろう。
ついにバッグだけで雨量を受けきれなくなった私は、近くのバス停に逃げ込んだ。
時刻表を見る。駅へのバスは今から十七分後に来る。
ついでもう一人、逃げ込んできた男がいた。
4か月ぶりの裕典だった。
「…」
私は咄嗟に下を向き息を止める。
「…ぁ、咲、か?咲だよな?」
髪を拭うハンカチの端から裕典の丸くした目がこちらを見つめている。
できれば声をかけないでほしかった。
並木に反射したヘッドライトが私の表情を露わにする。
「…その、お互い、ツイてないね。」
アルミ板が雨を弾く音、
車道の水たまりが踏み荒らされる音、
クリスマスに交換した腕時計が互いの手首で別々の時を刻む音が二人の沈黙の間に入り込む。
裕典は二席空けて私の隣に座った。
バスは今から十五分後に来る。
「…」
「親御さんとは、どう?」
裕典の言葉はいつも他意はなかったが、これは気持ち苦しそうな声色だった。
「…お見合い、多分うまくいかなくて、こっちに戻ってきて、電話してない。…もう、わかんなくなっちゃった。」
「まあ…無理ないよな、まだ。」
「そっちは…?いや、何でもない忘れて。」
私は頭の中の辞書を必死にめくるが、次のページが泥を吸ったように重たい。
「あのな、咲。」
裕典が広げた背広をぎこちなくプラプラとなびかせる。
「私は別に元気よ。今は仕事が楽しいし。」
「それがな、俺さ。」
「何も言わなくていいわ、もう話さない方がいい気がする。」
「変な話だと思うかもしれないけど、お前は笑わないと思って。」
「元気そうでよかった、これでおしまい。」
体重をかけて辞書を閉じると、ようやくバスが来た。
私はわざと遠くを見る。裕典より、バスより、夕立よりさらに遠くを見つめて、立ち上がった。
「小人、飼い始めたんだ。」
「…コビト?」
裕典は苦笑しながらスマートフォンを取り出した。私は反射的に顔をしかめる。
どうせSNSで拾った画像か、AIで作った動画か、そのあたりだろうと思った。
雨音が屋根を叩く。裕典は何も言わず、一枚の写真を差し出した。
植木鉢の縁にかかったリングピローに腰掛ける小さな女の子が写っていた。掌に乗るほどの大きさだった。
合成にしては影が自然すぎる。昔からパソコンの初期設定すら人任せだった。
私は写真を拡大した。女の子はカメラに向かって不機嫌そうに頬を膨らませている。髪の毛一本一本まで妙に鮮明だった。
「…精巧なフィギュアとかでしょ。」
「…動く。」
「じゃラジコン。」
「喋る。」
「音声認識の!」
「飯食う!」
私はスマートフォンを突き返した。
「信じてもらえた?」
「信じたから怖い。」
「最初、俺もそうだったわ。」
裕典は少しだけ笑った。
夕立はまだ弱まらない。
駅へ行く次のバスは今から三十二分後に来る。
二か月前に裕典の家に小人が住み始めた。
ある朝に私とホームセンターで買ったサンスベリアの葉の隙間から、一糸まとわぬ女の子が顔を出した。
プリンセスのような顔立ちに怖さより陶酔が瞬間勝ったようだ。
日本語を既に心得ていて、すぐに会話できたので、身の上を聞いたところ、厳密には違うが宇宙人のような異界の住人のような、限りなく人間に近い人だった。
地元での呼び名をそのままに、「ヒメ」と呼ぶことにした。
まだまだ幼く、裕典の前に現れた経緯もヒメ自身わかっていなかったが、もうこの世界から脱することは叶わないことは本能的に解っていたみたいで、しばらくは裕典の家に厄介になることになった。
「わ!ふっかふか!」
座椅子代わりに用意したリングピローに、ヒメの緊張は和らいだ。
主食は米粒、服は人形のおさがり、ボディソープは弱酸性ビオレ。
知らない世界に生まれても懸命に小さな命を動かしている彼女は、裕典の傷心に強く訴えかけてきた何かがあったみたい。
夕立はまだ止まない。肩とお尻の冷たさも、すっかり息を潜めていた。
「それで…その小人は今もあんたの家にいるの?」
「まあ。」
裕典は即答した。
「最初は本当に大変だった。風呂場で排水口に落ちて見失ったり。」
「死んだじゃん。」
「そう思った俺も。青ざめながら二時間かけて充電コードで吊り上げて。」
思わず笑ってしまった。
こんなに肩を軽くして笑ったのなんて、4か月ぶりかもしれない。
「あと、ベランダで干してた靴下に座ってたらスズメに連れていかれそうになったり。」
「全然学習してないじゃない。」
「だから一人の外出を禁止した。」
「親かあんた。」
裕典は諦め混じりに苦笑いをした。
「最初は飼うつもりだったんだ。」
屋根で塊になった雨粒が落ち、水たまりに映った裕典の顔が数秒歪んだ。
「飯やって、寝床作って、ハムスターみたいに面倒見る感じで。けど、やっぱちょっと難しいな。」
その言葉に少し胸が痛んだ。
裕典は昔から決して人を見捨てない、不器用を自覚しながら手を差し伸べるのを躊躇わない、優しい人ではあった。
ただ、人の話を最後まで聞くのは苦手だった。特に私の。裕典はいつも結論を急ぐから。
「ヒメがさ、このリングピロー気に入ってるんだよ。」
裕典はスマートフォンを指でなぞった。
「昔お前と買ったやつ。」
私は視線を逸らした。
逸らした先で、揺れる水たまりの中で、裕典が私から目を離さない。
「ヒメが聞いてきたんだよ。この『座椅子』の用途。」
私はスマホをなぞる指を目で追う。
「お前には悪いけど、正直に教えた。」
遠くで誰かがクラクションを鳴らしている。
濡れたアスファルトの熱が冷めていく。
「そしたら急に黙り込んで。」
スマートフォンが切り替わる。
リングピローの上で膝を抱えるヒメが写っていた。いつもの不機嫌そうな顔ではない。
写真越しにもわかるほどに言葉を飲み込んでいるように見えた。
「その日の夜だったかな。ヒメが珍しく寝なかったんだ。紅茶を持ってくると、初めて、自分のことを話してくれた。」
裕典は遠くを眺めた。
トラックが通り過ぎ、跳ね上がった泥水がガードレールを濡らした。
「『私ね、結婚してたの。』って言ってきたんだ。」
私は思わず顔を上げる。
「『帰る約束をした人がいるの。』って。」
すぐに顔を下に落とす。
自分事のようで、まるで自分の心臓を愛撫されているようでおぞ気がした。
水たまりに落ちた雨粒が、いくつもの輪になって広がった。
分針が涼しさを断ち切るように、際立って音を立てて刻んだ。
裕典は立ち上がって、そのあとに回し始めたという動画を見せてきた。
ヒメが紅茶入りのペットボトルのキャップを抱えながら何か話している。
音量が小さくて聞き取れない。
しかし画面の中のヒメは笑っていた。
「ヒメさ、笑ってその人のこと話すのよ。帰れないかもしれないのに。躍起になってるわけでも、そんな生態でもなく、約束した人がいるのよね!ってめちゃめちゃ喜んでて。」
私は画面に魅入られていた。
懐かしい生活観をバックに、私にはできそうのない輝かしい笑顔をこの子は見せている。
日が次第に沈み、街灯が点き始める。
「…それは、ちょっと調子狂うね。」
夕立が止み、夜雨となる。
「俺もさ、これまで引き出しの奥にしまっていたリングピローも、前向きに見ることができるようになったんだよね。あのとき捨ててなくてよかったなって。」
「まあ、それなら、…よかった。」
向こうに大きな四角いシルエットと灯りが見えた。ついに、駅行きのバスだ。
裕典はバスに乗り込み、整理券を取った。
「ここんとこ他に話せるやついなくて、俺も落ち着きがなくなってたんだ。ごめん。変な話をして。」
私は濡れた路面を見た。
「…変な話かなんて…。」
私は水たまりを蹴った。
裕典の手からこぼれた券を拾って、私は小さく頷いて、バスに飛び乗った。
「…会ってみたい。」
励ましたいとか、助けたいとか、そういう立派なものではない。ただ、話したいこと、話してもらいたいことがあった。
リングピローの上で帰りを待ち続けるその子に、一言だけ伝えたかった。その一言というのは、今のところ私も見つけられていないけれど。
窓ガラスに雨粒が流れる。
裕典が隣で整理券を握り直した。
裕典の薬指の絆創膏がふやけている。
「…着いたら、まずヒメちゃんにいくつか服を裁縫しようか。」
裕典はばつが悪そうな顔でほほ笑み、バスで揺れる。
私たちがいなくなると、ツバメが停留所上の巣に帰ってきた。
ヒナはまだ小さい。
この度は、はらとけいさんが企画する「せりふ三題噺」に参加させていただきました。
#せりふ三題噺|お題発表(2026/6/12〜2026/6/19)|はらとけい
セリフ:「わ!ふっかふか!」
三題:酸性・夕立・リングピロー
はじめて創作の企画にチャレンジさせていただき、セオリーやノウハウなどはまったくわかりませんでしたが、決められたお題から筋道を立てて物語を完成させる過程が大喜利のようで面白かったです!
この創作にあたって『親指姫』を読み返したのですが、怒涛の災難の連続があまりにハチャメチャで吹き出してしまいました…!
人情は種族やフィジカルなどを優に超えてくるんだなって思いました!
人と人との日常も、弱酸性のように穏やかで清らかなものでありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
