【随筆】国語『著者の気持ちを答えよ』について思う事
1.好奇心
個人的には記憶に無いのだが、しばしば国語の読解問題において『著者の気持ちを答えよ』と出題されるらしい。
その話題が出るとき、『そんなの分かるわけがない』という主張までがセットで述べられる事が常である。
この主張は自体は様々なところで耳にする。
この記事を書いた理由も、Youtubeの動画を見たときにコメント欄がこの主張で荒れていたからだ。
経験として、私の知り合いの何人かもこの様にぼやいてた事はあった。
そのように記憶している。
気持ちは分かる。
著者の気持ちとは著者個人の主観によって定まる自由な事項である。
それを客観性をもって一意に導き出せる事を前提としている"テスト"という形式で問われる事が理不尽に感じるのだ。
つまるところ、
主張
P:読解問題の解答は、客観性をもって一意に定まらない物が存在する。
ゆえに
Q:読解問題は不当である。
こう主張しているわけである。
なんだか好奇心を搔き立てられてしまった。
2.おもちゃ
ここで一度、お遊びとして先ほどの主張の"Pの否定"を仮定してみよう。
仮定
Pの否定:全ての読解問題の解答は、客観性をもって一意に定まる。
※ちなみに「xが存在する」の否定は「全てxではない」となる。
つまり、「著者の気持ち」は、その文章の特定の段落、表現、比喩、論理展開といったテキスト内部の根拠によって裏付けられる。
また、複数の解釈が可能に見える場合でも、国語力を持つ合理的な読者の多数が、テキストの根拠に基づき、提示された選択肢の中で最も妥当な一つの結論を導き出せる。
そのように仮定すると言う事だ。
なぜこのような面白くない仮定を置くのか。
べつにPの否定こそが正しいと言いたいわけではない。
これが誤っているか否かを検証する事によって、Pの正しさ、ひいては主張の妥当性を推し測ろうという試みである。
この仮定が正しければどうだろうか?
当然、「著者の気持ちを答えよ」という問題も例外ではない。
すなわち、読解問題とは客観的な論拠に基づき一意に推論する能力が試される問題であるという事になる。
ところが、この仮定は主張の支持者にとって深刻な事態を浮かび上がらせる。
仮定であるPの否定を前提とするならば、主張の根拠であるPは当然成り立たない。
Pが成り立たない以上、導かれた結論Q(読解問題は不当)は、その妥当性、説得力を失う。
したがってこの仮定、すなわちPの否定が正しい場合、主張の支持者は、自らの能力不足を棚に上げ、読解問題に言いがかりを付けていると言われても仕方が無い。
ゆえに、主張の支持者はこの仮定を退けなければならない。
主張は、根拠の無い言いがかりではなく、正当な理由があると説明する責任が生じる。
もちろん、"Pの否定を仮定するならば"の話だ。
どうやら少しスリリングなおもちゃを見つけてしまったようだ。
3.お遊び
私自身は今後、読解問題を解く事は無いだろうし、読解問題を作問する事も無いだろう。
この主張の真偽はどうでも良く、ただの野次馬的興味を示しているに過ぎない。
実に気楽な立場だ。
だから、主張の真偽自体に興味はないが、もう少しこの仮定が正しいという立場で妄想してみようと思う。
"Pが正しいと仮定"した上での、「読解問題は不当である」という主張はもう十分に聞いた。
"Pの否定こそが正しい"にも関わらず、主張を支持する者が居るとしたら?
これを妄想して遊んでみたい。
◆物語の解釈能力
仮にPの否定が正しいとして、主張の支持者は、自らの能力を棚上げしている事に気付いていない事になる。
この場合、大人になったとき、物語全般を解釈する力が他の人よりも身についていない可能性があるだろう。
例えば映画を観ても何だかよくわからない眠気を誘うだけのものになる可能性があるだろう。
勧善懲悪の主人公が格好いいだけの映画等、薄っぺらい娯楽を消費するしかできない可能性があるだろう。
もちろん映画に留まらず、読書や漫画、アニメ等もそうだ。
◆学習能力
そして、これは新しい事を学ぶ時にも、その教科書や教える側の言っている事が理解できない可能性があるだろう。
高校生に出題されるレベルにおいて、解答を見てなお躓くならば、その可能性は極めて高いと評価せざるを得ないだろう。
何せ、高校生レベルなのだから。
◆批判的思考力
また、他者の主張や、自らの結論が、客観的な論拠に耐えうるかを検証できない、もしくは検証してもザルな検証に留まる事になるだろう。
なんと言えば良いだろうか。
「自分の意見の正しさ」を検証する能力、すなわち批判的思考力が十分に養われない可能性があるだろう。
◆建設的な議論
批判的な思考力が無い場合、他者への批判は感情的なものに終始するしかない。
盲目的に他者の思想に"共感"するか、感情的に否定するしかできない可能性がある。
つまり、建設的な議論ができない大人になる可能性がある。
例えば「読解問題は不当である」と、特に根拠なく感情的に肯定してしまう可能性がある 。
作問を任される人物は、適当な問題を出題すれば責任を問われる立場であり、普通は大多数の解答者より圧倒的に国語力が高いはずである。
本当にPは正しいのだろうか?Pの否定は正しくないのだろうか?
こういった事に主体的に思いを巡らせる事をすっ飛ばし、ただ、感情的に肯定する可能性がある。
自らの能力不足を棚に上げ、作問者に対して何とも無礼な言いがかりをしてしまう可能性がある。
つまり、国語力が無いがゆえに「読解問題は不当である」という主張を支持する事になってしまいかねない。
1. 読解問題の答えは一つに定まらない。だから不当だ。
2. "仮定によれば" 客観的かつ一意な答えが存在する。
つまり、
3.その主張をする事自体が読解・推論の能力不足を示している。
非常に由々しき問題、深刻な事態に、知らぬ間に陥っている可能性がある。
あれ?
Pが正しくても、Pの否定が正しくても、主張は存在しうる?
んん?
そもそも、学校のテストや入試問題における読解問題の解答は、客観性をもって一意に定まらない物が本当に存在するのだろうか?
むぅ。
またしてもスリリングな事に気付いてしまった。
いや、楽しいお遊びは終わりにして、ここらでお片付けをしよう。
私は真偽に興味はない。
野次馬に過ぎない。
4.お片付け
もちろん、仮定を認めるならばという仮の話、可能性の話、妄想の話だ。
主張をする者は前提Pが正しいと思っている。
彼らが無礼な人だと決めつけるのはよくない。
それこそ無礼な話だ。
きっとその気になれば正当な証拠を提示できるのだろう。
つまり、国語の問題の解答の一意性が無い事実を暴き立てる事ができるだけの国語力を有するのだと思われる。
だとすれば何も問題はなく、正当だ。
私の妄想は失礼であった。
申し訳ない。
ちなみに、このブログはFXに関するブログをメインに扱っている。
確証バイアスから抜け出す一つ の方法が論理的に考える事だと思う。
少し遊び足りない人におもちゃをあげよう。
問:この記事の結びである確証バイアスの話は唐突ともいえる。
なぜこのように結んだのだろうか?
著者の気持ちを答えよ。
