発声障害(心因性吃音)になるまでの経緯①
小さいころから、人の目を気にしてばかりいた。
中学1年の頃、授業中に何度もトイレに行きたくなった。
当時、授業中にトイレへ行く生徒なんて当然ひとりもいない。
先生にもクラスメイトにも、そして親にも、なかなか理解してもらえなかった。
50分の授業で4回くらいトイレに行きたくなった。
でも先生に「またか」と言われるのが怖くて、我慢していた。
当時は“何度もトイレに行く”という行為が怒られる対象だったからだ。
母親もこの状況を心配して、いろいろ考えてくれた。
けれど、どうすればいいのか分からなかった。
正直、学校にも行きたくなかったけれど、休むこともできず、ただ必死に通っていた。
後になってネットで調べてみると、
自分の症状はおそらく【心因性頻尿】に近いものだったと思う。
それを知ったのは、もうずっと後になってからだ。
それでも中学のとき、少しだけ夢があった。
誰にも言えなかったけれど、アニメの声の仕事って楽しそうだなと感じていた。
そんな気持ちを胸の奥にしまいながら、日々をやり過ごしていた。
高校に進学しても、心因性頻尿は続いた。
精神的な負担が重なり、結局途中で学校を辞めた。
学校を辞めたあとは、しばらく家にこもっていた。
でもこのままじゃダメだと思い直し、運送会社で働きながら、
ガソリンスタンドでも掛け持ちでアルバイトをした。
そんな時、友達が持ってきた芸能事務所や学校が書かれた雑誌。
たまたま目に入ったのが“声優の専門学校”の広告だった。
「中学の頃に心の中で思っていた夢が、もしかしたら叶うかもしれない」
そう思って、18歳のとき専門学校に入学した。
2年制の学校で、最初は声優になりたい気持ちが強かった。
けれど2年生の時、ある先生との出会いが僕の人生を変える。
2年生から始まる【ナレーションレッスン】。
その講師はとにかく厳しかった。
そして僕は、クラスで一番怒られていた。
「なんで自分ばかり…」そう思っていた時、講師が言った。
「どうして俺がお前を一番注意するかわかるか?
お前の声は、5年に1人の逸材だからだ。」
その言葉を聞いた瞬間、思わず固まった。
“10年に1人”でもなく“5年に1人”という
曖昧さに少し笑いそうになったけれど、
続けて講師が言った。
「5年に1人は、5年後には新しい逸材が出てくる。
だからお前は5年後、抜かされないよう努力しろ。」
その一言で、初めて自分が誰かに“認められた”気がした。
運動も勉強も得意ではなかった僕に、
初めて“自分の声”という特技があることを教えてもらえた瞬間だった。
「ナレーターになりたい」
そう思った。
それから卒業までの約半年ちょっと、必死でナレーションの練習をした。
ナレーションのレッスンが楽しかった。
卒業式。
運良く自分だけが関西のMC・ナレーターの事務所に所属できた。
20歳を過ぎると、事務所の先輩や上司との食事の機会も増えた。
「先輩にご馳走になったら残さず食べるのが礼儀」
そう教えられてから、残してはいけないという
プレッシャーを強く感じるようになった。
頭の中で「失礼になったらどうしよう」「気を悪くされたらどうしよう」と考えすぎて、
次第に外食そのものが怖くなっていった。
やがてそれは【会食・外食恐怖症】のような症状に変わっていった。
今でも、初対面の人と食事をする時は緊張してしまう。
様々な症状で苦しみ、悩んできたけど
ナレーションだけは好きでずっと続けれる気がしていた。
いずれはプロのナレーターになってテレビ番組や、
レギュラー番組をもらって
”自分の声”で生活していく夢があった。
ただ、このときはまだ知らなかった。
“声”というものが、
自分にとってこれほどまでに大きな試練になることを――。
