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進化を続け、ひたすら歌い続けるボーカリスト・沢田研二の成し遂げた偉業とは。

グループ・サウンズ全盛期から活躍するスーパースター、ジュリーこと沢田研二。舞台・映画などで役者としても名を馳せ、幅広く活動しているが本業は歌い手。本記事では、ボーカリストとしての沢田研二にクローズアップし、その魅力を紹介していく。

1960年代にザ・タイガースのメンバーとしてデビューし、解散後もソロシンガーとして大ブレイク。誰もが知るスーパースターとして、その地位を確立した沢田研二。喜寿を目前とした今も半年ごとにライブツアーを敢行し、現役のシンガーとして歌い続けている。多くの人が知るジュリーのヒット曲は70〜80年代のものがメインだが、それ以降も今に至るまで進化を止めない彼の軌跡とは。

ザ・タイガースからソロへ。初期の沢田研二
1948年、鳥取県生まれ。中学時代は野球一筋だったという沢田研二。17歳の時に京都のダンス喫茶で、ドアボーイのバイト中に声をかけられたことを機に彼の運命は一転する。後にザ・タイガースの原型となるバンドのリードボーカルとして抜擢され、上京することとなった。ちなみにこの時、内田裕也に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、沢田は本名でやりたいと拒否したというエピソードがある。メジャーデビューしたザ・タイガースは、当時全盛だったグループサウンズの頂点に躍り出た。メンバーの中でも特に容姿端麗だった沢田は、10代・20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得した。

ザ・タイガースは71年に解散するが、沢田は萩原健一とツインヴォーカルを務めるバンド、PYGでの活動を経てソロシンガーへ転身。2年後の73年には『危険なふたり』で65万枚を売り上げ、単独で初のオリコン1位を獲得。ソロでも人気を確立し、1977年の日本レコード大賞を受賞した『勝手にしやがれ』他、次々にヒットを飛ばしていった。

ヨーロッパでもヒットチャートにランクイン
ソロデビューを果たした沢田の楽曲はヨーロッパでもリリースされ、現地でヒットチャートにランクインしている。1975年1月には『愛の逃亡者』をイギリスでリリース。続いてフランスで『巴里にひとり』のフランス語バージョンがリリースされると、週間ラジオチャートでトップ4に入り20万枚の大ヒットとなった。また、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞。以降もフランス、イギリス、ドイツ、ベルギーなどでシングルが発売された。この時期には、74年のハワイを筆頭にグアム、シンガポール、香港それぞれで海外コンサートも開催している。

ビジュアル系の元祖はジュリー?
70年代後半、沢田は、いち早く「グラムロック」と呼ばれるムーブメントを自身のスタイルに取り入れた。「グラムロック」とは、イギリスを中心に1970年代前半に流行したビジュアルを重視したロックスタイル。今でいうビジュアル系の元祖はジュリーだったと言っても過言ではないだろう。鮮烈なファッションと派手なメイクでTVに出演するようになり、世間を騒がせたのはこの頃だ。79年に発売された『カサブランカ・ダンディ』では、ウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、同年リリースの『OH! ギャル』では、マレーネ・ディートリヒをオマージュしたメイクをするなど、当時のお茶の間を賑わせた。

80年代になると沢田のスタイルとパフォーマンスはさらにエスカレート。80年に発売された『TOKIO』では、電飾が施された衣装にパラシュートを背負って歌うパフォーマンスが大きな話題に。次のシングル『恋のバッド・チューニング』では、当時まだ特注でしか作れなかったという青いガラスのコンタクトレンズを装着するなど、見る者の度肝を抜いた。また、この時期になると、自身のバンドともにパフォーマンスすることを強く意識するようになっていった。

プロダクションからの独立
80年代後半には、デビュー以来所属してきたプロダクションから独立。今のスタンスに結びつく独自の路線を歩み始める。また「懐メロ歌手ではなく現役の歌手だから」という理由で、92年からは音楽番組での過去の映像放映をNGとし(2001年に解禁)「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」と、95年にセルフ・プロデュースを宣言。それ以降、現在に至るまでアルバムのプロデュースは全面的に沢田本人が手掛けている。この頃になると、かつてのように音楽番組などで頻繁に彼の姿を目にすることは減っていったのは確かだ。だが、90年代以降の沢田の曲もロックスピリッツあふれる秀逸なものが多い。筆者としては90年代のジュリーこそ、最もミュージシャンとして輝きを放っていた時代なのではないかと考えている。

旬なアーティストが沢田のために曲を提供
それまでも佐野元春や井上陽水といったヒットメーカーが沢田に多くの曲を提供してきたが、90年代になっても名だたるビッグネームが彼のために作曲を担当している。ざっと列挙するだけでも、松任谷由実、徳永英明、サエキけんぞう、いまみちともたか(BARBEE BOYS)、鮎川誠(シーナ&ロケッツ)、玉置浩二、藤井尚之、大沢誉志幸などのビッグネームが名を連ねる。なお、忌野清志郎にいたっては沢田とのツインボーカルまで実現させている(アルバム『彼は眠れない』収録『KI・MA・GU・RE』)。

こうしてさまざまなアーティストからも楽曲を提供された沢田はソロデビュー以来、2008年の還暦ライブ開催まで1年に1枚ずつ新作のフルアルバムを発表していった。還暦ライブ以降、フルアルバムのリリースはしなくなったものの、4〜6曲入りのシングルなどの新曲リリースは続けている。

しかし、沢田研二が何より凄いのは、ソロデビューから間もない1974年から現在に至るまで、毎年休むことなく全国ツアーを敢行していることだ。ちなみに1974年に16都市で34公演を行った「Julie Rock'nTour」と題されたツアーは日本で最初の全国ツアーだと言われている。そして、それらの集大成となったのが沢田の還暦を記念して開催された2大ドームツアーだ。

6時間半で82曲を披露した還暦ライブ
2008年6月。沢田が還暦を迎えるに至って「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」が開催された。このコンサートは東京ドームと京セラドーム大阪で開催され、両日で5万4,000人を集客。1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲(+アンコール2曲)を歌いきるという脅威のステージを実現した。筆者もこのコンサートには足を運んだが、沢田と4人のバンドメンバーがひたすらオリジナル曲を生で演奏するとは思いもせず、その熱量に圧倒されっぱなしだった。前半・後半の2部構成ではあるが、それぞれが3時間超えの長丁場。通常、1本のコンサートでの演奏曲数は多くても25曲前後。だが、還暦を迎えた沢田はゲストを招き入れることもなく、一人で82曲を歌い切ったのだ。これにはファンならずとも驚かされ、大きな話題となった。

その後も沢田は精力的に活動を続け、2009年に内田裕也とのジョイントライブを敢行。2010年には加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んでアルバムリリース&全国ツアーを実施。さらに2013年末には、オリジナルメンバーでは44年振りとなるザ・タイガースのコンサートを日本武道館で行うなど、かつての音楽仲間との絆を活かした活動を行ってきた。

ドタキャン騒動から、見事に汚名を挽回!
2018年7月から2019年2月にかけては、アリーナクラス10公演を含む全67公演の大規模な古希記念ライブツアーを開催。本ツアー中、アリーナクラスの会場で観客が少なかったことを理由に公演が中止になるというトラブルも発生したが、結果的にはそれが話題となり、その後のツアーの動員は大幅に向上したという。これもスーパースターならではのエピソードと言えるだろう。

なお、上記ツアー開始の2018年から2021年までは、バックバンドが解散したことで、ギター1本をバックに歌うというスタイルとなっていた。この時期にギター演奏を担ったのは、80年代から沢田のギタリストとしてツアーを廻ってきた盟友・柴山和彦。ステージに立つのはたった二人だったが、そんなシンプルな構成でも十分に会場を魅了する沢田の姿は圧巻だった。

そんな沢田のライブだが、2022年になると待望のバンドスタイルが復活。これ以降はフルバンドでのライブが開催されている。また、前出のドタキャン騒動のあったさいたまスーパーアリーナでも、自身の75歳の誕生日にツアーファイナルを開催。約1万9000人を動員しチケットは完売となった。この公演ではザ・タイガースから瞳みのる、森本タロー、岸部一徳の3人の他、沢田に縁の深い多くの仲間がゲストで参加して大いに盛り上がった。

そして2025年の今。沢田は自身が望むサウンドを追い求めるべくバンドを再編成。よりアグレッシブなステージを展開し、ファンを驚かせてくれた。MCでは年齢のことを面白おかしく語ることもあるが、ライブに関しては今も理想を求めて攻め続けている沢田。そして、そんな彼をファンはこれからもずっと追い続けていくことだろう。

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