キャンパス・ライブ ≪14≫
第14話
黒パーカーの男は、両腕を背中側にねじ上げられたまま、片倉に地面へ押さえつけられていた。
「片倉さん、気をつけて。こいつ、ポケットに何か隠してるかも」
健人は慎重に男へ近づき、黒パーカーのポケットへ手を伸ばした。男は鋭く睨み返してくるが、片倉の腕に押さえ込まれ、ほとんど動けない。
「これは…、スマホ?」
健人は拍子抜けしたように町田を見る。
「さっき、取り出そうとしてたよな」
町田は警戒したままスマホを受け取った。その瞬間だった。
「触るな!」
男が突然叫ぶ。喉を潰すような怒声だった。その反応を見て、町田が眉を上げる。
「なるほどな。捕まる前に証拠を消そうとしたってわけか」
男は何も答えない。ただ、町田の手の中のスマホを、異様なほど険しい目で睨み続けていた。
そこへ、荒い息を切らした相原が駆け込んでくる。
「はぁっ…はぁっ…。よ、良かった。捕まったんですね…」
膝に手をつきながら、相原は大きく息を吸った。
「先回りしたのは良いですけど、ほんとに来たらどうしようって、めちゃくちゃビビってましたよ」
緊張を誤魔化すように笑い、袖で汗を拭う。
さらに、遅れて他の面々も一人また一人と現場へ集まってきた。結衣は、地面に押さえつけられた男を見るなり、わずかに眉を寄せる。
「結衣。こいつに見覚えある?」
健人が尋ねる。結衣は数秒黙り込んだあと、小さく首を横に振った。
「ううん。たぶん、知らない」
その瞬間だった。男が突然身体を激しく揺らし、片倉の拘束を振り払おうとする。
「おっと」
だが片倉は微動だにしない。逆に男の肩を押さえ込み、その動きを封じる。男は地面に押さえつけられたまま、結衣を睨みつけて叫んだ。
「長津田薫だ。旧姓淵野辺と言えば分かるか?忘れたなんて言わせねえぞ!」
空気が凍った。その名前を聞いた瞬間、結衣の顔から血の気が引いていく。
「淵野辺…」
結衣の唇が小さく震えた。
「もしかして…」
男は低い声で言った。
「ああ。淵野辺陸の兄だ」
その瞬間、結衣は息を呑み、両手で口を押さえた。
「そんな…」
膝から力が抜けるように、その場へ崩れ落ちる。美咲が慌てて支えた。
「結衣!?」
健人たちは、ただ困惑したまま結衣を見ることしかできなかった。だが長津田だけは違った。まるで、この瞬間をずっと待ち続けていたかのように、結衣を睨み続けていた。
結衣は、美咲に肩を支えられながらも、目を見開いたまま動けなかった。
「お前のせいで、俺たち家族がどうなったか。忘れたとは言わせねえ」
片倉に押さえつけられたまま、それでも視線だけは鋭く結衣を射抜いていた。空気が重く沈む。健人は、結衣と犯人を交互に見た。
結衣は答えられなかった。唇を震わせたまま、視線を地面へ落とす。代わりに、長津田が低い声で言った。
「中学の頃だ。俺の弟…陸は、古淵の弟と同級生だった」
結衣の肩がびくりと震える。
「当時、陸は古淵の弟をいじめてた」
誰も口を挟まない。
昼休みが終わり、人通りが消えた。風の音だけが階段の隙間を抜けていく。
「古淵は、それをネットの掲示板に書き込んだんだ」
長津田は淡々としていた。だが、その声の奥には、押し殺した怒りが滲んでいる。
「最初は匿名だった。でも、内容が具体的すぎた。学校名も、部活も、全部バレバレだった」
結衣が苦しそうに顔を歪める。
「私はただ…、毎日泣いてる、奏を守りたかっただけ…」
その言葉は、自分自身に向けているようにも聞こえた。
長津田が言葉を遮る。
「だが、掲示板を見た別の奴が、陸の実名を晒した。そしたら、あっという間に噂が広まった」
健人の脳裏に、見慣れたSNSの光景が浮かぶ。切り抜き。拡散。正義。私刑。そして、止まらない炎上。
「学校じゃ腫れ物扱いだ。親や俺まで陰口を叩かれた。家の前に落書きもされた」
長津田は目を閉じた。
「それから、陸は学校に行かなくなった。引っ越しても終わらなかった。ネットに名前が残り続けたからだ」
美咲が小さく息を呑む。
「家庭は壊れた。親は離婚した。名字が変わっても、過去がバレるのが怖くて、陸は今でも部屋から出てこない」
結衣は両手で顔を覆っていた。
健人が長津田を睨みながら話しかける。
「…だから、結衣の動画を?」
長津田の口元がわずかに歪む。
「ああ」
認める声は静かだった。
「ずっと復讐の方法を考えてた。高1の時、古淵の顔写真を集めて、喫煙してるフェイク動画を作ってやった」
結衣が息を止める。
「最初は面白いくらい広がったよ。“喫煙美少女”ってな」
長津田は乾いた笑いを漏らした。
「警察にも相談したんだろ?」
不気味に笑いながら続けた。
「でも、結局うやむやだ。匿名ネットワークと海外サーバを何重にも挟んだからな。」
それを聞いた中山さんが苦い顔で口を開く。
「それじゃあ、捜査協力を取るだけでも何ヶ月もかかるし、その頃にはログも消える。個人への嫌がらせ程度じゃ、捜査は現実的じゃないだろうな」
長津田は小さく頷く。
「でも、すぐコロナ騒ぎが始まった。世の中の関心は全部そっちに行った。“喫煙美少女”の特定なんて、誰も興味が無くなったんだ」
長津田が悔しそうに唇を噛んだ。
町田が低い声で尋ねる。
「だが、なんで今さら動いた」
「機が熟すのを待ってたんだ。ずっと…。こいつに一番ダメージを与えられる機会をな!」
長津田はゆっくり顔を上げた。
「こいつだけが幸せな生活を送り、成功する。その最高潮で、全部壊してやろうって!」
結衣の肩が震える。
「だから同じ大学を受けた」
健人たちが息を呑む。
「近くで見てやろうと思ったんだよ。お前が、どんな顔して生きてるのか。いつその生活を壊してやろうか。」
長津田はゆっくり笑った。その笑みは、怒りと執着が長い時間をかけて歪んだような、冷たい笑みだった。
「そしたら、友達の友達としてSNSで流れてきたんだ」
その視線が、再び結衣へ向く。
「こいつが、大手広告代理店から内定をもらった事を。今だと確信した」
その声には、抑えきれない憎悪が混じっていた。
「なんでお前だけ、何事もなかったみたいに生きてんだよ!」
長津田は歯を食いしばる。
「でも…」
健人が、慎重に口を開いた。
「でも、きっかけを作ったのは、お前の弟だろ」
長津田は黙って健人を睨む。
「奏くんをいじめてたんだろ。だったら、それを止めたかった結衣を…、結衣の人生を壊していい理由にはならない」
震えていた声に、だんだん力がこもる。
「…ま、逆恨みだな」
すかさず町田が口を挟んだ。
「古淵に落ち度が無かったとは言わねえよ。けど、それでここまで恨むのは違うだろ。恨むなら、自分の弟と、世間を恨むんだな」
「逆恨み…だと?」
長津田は、町田の言葉に激昂し、床に顔を擦り付けながら吠えた。
「綺麗事を言うな! お前らに何が分かる! 陸は確かに悪かったよ。だけど、ここまで責められる事だったか?ネットや周りの連中は、 誰もが正義の味方の面をして、ただ一人の人間を、その家族を、おもちゃみたいに袋叩きにして楽しんでただけだろ! 古淵、お前がその引き金を引いたんだ!」
その叫びは、今も癒えない、生々しい傷口から溢れ出た悲鳴だった。結衣はただ涙を流し、美咲の胸に顔を埋めて震え続けることしかできない。
健人は、ぐっと拳を握りしめた。長津田の言う「ネットの狂気」は、まさに今、結衣が直面しているものそのものだった。かつて結衣が弟を守るために放った正義の剣は、巡り巡って、長い歳月を経て彼女自身の喉元に突きつけられている。
「…それでも」
健人は一歩、前へ踏み出した。
「それでも、お前がやったことはただの八つ当たりだ。お前はAIの仕組みを悪用して、存在しない嘘をでっち上げ、結衣の内定を奪おうとした。自分の家族を壊したネットの化け物と同じことを、今、お前が結衣にやってるんだよ!」
「うるさい!俺は、何もして無いのに、人生を壊されたんだ!この女に!!」
長津田が狂ったように叫ぶ。だが、その背中を押さえる片倉の腕は、微塵も動かなかった。
「そこまでだ」
低く冷徹な声が響いた。コツ、コツ、と硬い靴底が階段を叩く音が近づいてくる。
