兵站戦記 第十三話 モンゴル国③
黄金の水
1922年、ウランバートルから北へ向かう道。日本から派遣された農業技師 川島義明 は、馬車の揺れに身を任せながら、「北部でビールを造りたい」というモンゴル政府の要望書を読み返していた。
目的地は ムルン。そこには、第一次世界大戦で捕虜になったのち、日本に帰化したドイツ人の技術者、ハインリヒ・シュトラウス(日本名:花村晴彦) が暮らしていると聞いていた。
晴彦は、ミュンヘン郊外の醸造学校出身の元技師。彼はフブスグルの清冽な雪融け水を飲み、こう呟いていた。
「これは……ビールの神が与えた水だ」
そこへ川島が到着した。ふたりは湖畔で握手を交わす。
川島は「北の大地に新しい産業を築きましょう。」そういって握った手に力を込めた。
「まずはホップと大麦だ。気候が私の故郷、バイエルンに似ている。」晴彦の直感は現実となっていく。
川島は日本式の農地開発技術を導入した。
湧水を利用した小規模潅漑、堆肥の配合、寒冷地用二条大麦の試験栽培、そしてホップ棚(高さ7m)の設置。
一方、晴彦はチェコとバイエルンで用いられる技法を持ち込み、Saaz(ザーツ)系アロマホップ の苗を北部に適応させた。
結果は見事だった。
フブスグルの夏は日照が強く、湿度が低いため病害虫がほぼ出ない。夜は冷え込み、ホップの香りが凝縮。大麦は粒が揃い、タンパクが低い“ビール適性”の理想的品質。雪解けの軟水はミュンヘン水に匹敵、いやそれ以上だった。
晴彦は感嘆した。
「この大地は、バイエルン以上だ……!」
モンゴル政府は北部の土地の一部を“醸造農場(Beer Agricultural Estate)” として開発を許可した。1922年秋、モンゴル最初の本格ビール工場が建設を開始した。

川島は日本式の建築技術を導入した。
冷涼気候を活かした天然貯蔵庫、製麦施設(ドイツ式フロアモルティング)、醗酵タンクは日本の鉄工技術で製造され、醸造釜にはモンゴル産の銅が使われた。また、冬の極寒(−40℃)を利用した氷室貯蔵により、味の向上や品質が安定した。フブスグルでは天然の恵みを余すところなく利用でき、最少コストで最高品質のビールが間もなく誕生した。
工場の名は―「フブスグル・ブラウハウス(Khövsgöl Brauhaus)」
その中心にはフブスグル湖水を引く石造りの井戸が置かれた。モンゴル初のビールはこの水から生まれる。
もうひとつの名産
晴彦はただの醸造技師ではなかった。彼の父はニュルンベルクで有名なソーセージ職人だったのだ。息子の晴彦もソーセージ作りに熟知しており、ビールの相棒にソーセージをモンゴルで作れないか、川島に相談した。
北部モンゴルはもともと肉が豊富。羊、牛、ヤク……素材には困らない。
川島が提案した。
「日本の冷蔵技術を導入すれば、本格的に加工できますよ。」
こうして工場の隣に“タイガ・シャルクテライ(Taiga Schlachterei)=北方食肉加工場” が誕生した。
ここで作られたのがモンゴル × ドイツ融合ソーセージ
フブスグル・ヴルスト(ヤク肉+バイエルン香辛料)
ツァガーン・ブルグ(白ソーセージ)
ハラ・ヴルスト(黒ソーセージ)
ハーブ入り羊肉ソーセージ(草原の香り)
ビールとソーセージ―北部は一気に「食の観光地」となった。
特に自生のハーブを好んで食べた羊からはハーブを加えずとも、肉自体からハーブの香りがあったため、追加作業なしで高付加価値のソーセージが出来た。
北の食王国
1923年、最初のビールが完成した。
名は「Алтан нуур(Golden Lake)」— 日本語で“黄金の湖”の意。
黄金色のラガーは、Saaz ホップの爽やかな香りとフブスグルの軟水による軽快な口当たりで、首都ウランバートルの外国人駐在員の間で大評判となった。
モンゴル政府は公式に声明を出した。
「フブスグルのビールとソーセージは、北部の新しい名産品とする。」
観光客が湖を訪れれば、湖畔の木造ビアホールでゴールデンレイク × フブスグル・ヴルストを楽しむのが定番となった。
晴彦は涙ぐみながら言った。
「ミュンヘンを離れても、心のふるさとはここにある。」
川島は笑って答えた。
「ビールは、国境を越える飲み物ですから。」
こうして北部モンゴルは、1920年代にしてすでに“アジア唯一の北方ビール産地” と呼ばれるようになった。後に「フブスグル・ブラウハウス」はモンゴル最大のビール企業として君臨し、世界のビール大会で数々の賞を受けることになる。

温室農業
1924年。内モンゴル南部のガラス工業コンビナートは、日本の技術導入によって遂に大量生産体制に入った。
高純度の砂、天然ソーダ灰、太陽熱蒸気の高温炉、そして砂電池の蓄熱力。これらが組み合わさり、モンゴルはアジア屈指のガラス王国へと成長していた。その成功を見た日本の技術者・山田技術団の一員である榊原(さかきばら)工学博士は、ひとつの構想を口にした。
「ガラスがこれほど安く大量に作れるなら、草原で温室農業を始められますよ」
この一言が、モンゴルの食文化・農業・生活を根底から変える「温室革命」を生むのであった。
草原の透明な都市
榊原技術団は、ヨーロッパで確立されていたオランダ式ガラス温室の構造を参考にしつつ、モンゴル環境向けに改良した“耐風・耐寒温室”を設計した。
モンゴル式オランダ温室の特徴
鋼鉄フレーム+耐風アンカー構造
ガラスを二重貼りにし、間に砂電池の暖気を循環
風力発電による送風・換気
地中に蓄熱管を通し、夜間も温度10℃以上を維持
地下水ポンプと浄水装置を併設
ガラス工場で量産されるため建設コストが極めて安い
温室は南北に長い「列棟式」とし、草原の強風に対しても安定した構造だった。
建設地は、ウランバートル郊外・オルホン川流域・ボルガン草原など地下水が豊富な地域が選ばれた。
温室群は、夕日の光を反射して金色に輝き、遊牧民はそれを「草原の宮殿」と呼んだ。
温室栽培が始まると、モンゴル史上初となる本格果実・野菜農業が実施された。
◆最初に栽培された作物
イチゴ(四季成り・高糖度種)
トマト(耐寒品種)
胡瓜
レタス
キャベツ
じゃがいも(耐寒だが温室で高収量化)
西洋ネギ(ポロネギ)
特にイチゴは大人気だった。草原の子どもたちは、赤く実ったイチゴを見て歓声を上げた。
「草原でこんな甘い果物が育つなんて!」
当時のボグド・ハーンも視察に訪れ、「モンゴルでも桃源郷が作れるのだな」と感嘆したという。
温室農業により年間通じて作物生産が可能に。都市部への供給が安定し、遊牧と農耕の複合経済モデルが確立。青果物市場がウランバートルに誕生し、日本のレストラン文化も伝わり始める。冬季のマイナス30℃の環境でも温室内は15〜20℃を維持し、作物は順調に育った。
ガラス養鶏場
日本人技術者たちはさらに一歩進めた。
温室の保温性と風力発電の電源を使った気候制御型ガラス養鶏場を建設したのだ。
ガラス養鶏場の仕組み
砂電池の蓄熱管で室温を10〜15℃に維持
風力発電で換気扇・給餌装置・照明を稼働
モンゴル産穀物と乾草をブレンドした飼料
地下水浄水設備で常時新鮮な水を供給
卵は温室内の低温貯蔵庫に保管
日本式「消毒・衛生管理」が導入
これにより、モンゴル史上初の安定した鶏卵供給が実現した。
食卓の変化
肉食中心 → 卵・野菜・乳製品を含む高栄養食へ
都市部では卵料理専門店が誕生
温室トマトと卵の炒め物は国民料理に
幼児の栄養不良が激減し、平均寿命がさらに改善
ある老人は語った。
「昔は冬に野菜など手に入らなかった。 いまでは卵もイチゴも、毎日食べられる。 日本人が草原に“春”を持ってきたのだ。」
温室団地と農村協同組合
温室農業の成功により、地方では温室団地(グリーン・ステップ集落)が生まれた。
構成は、
ガラス温室 × 20〜50棟
ガラス養鶏場 × 3〜10棟
風力発電塔 × 数基
砂電池蓄熱庫 × 複数
地下水井戸+浄水施設
小学校・診療所
青果市場
遊牧民の一部は半定住化し、農業+畜産の複合産業を営むようになった。

また、日蒙農業協同組合が設立され、日本式の組織管理、販売網、資材調達が整った。
得られた収益は、鉄道建設・道路整備・教育費へ再投資され、モンゴルの経済基盤を強固なものとしていった。
1920年代末、モンゴルの空撮を見た欧米視察団は驚いた。砂漠には太陽炉と砂電池の光輪、草原には白銀に輝く温室群と風力発電塔。その光景はまるで、青空の下に広がる透明な産業都市であった。
報告書にはこうある。
「モンゴルは乾燥草原の国から、ガラスと風力と太陽の農業工業国家へ変貌した。」
肉しかなかった食卓には、イチゴ、レタス、卵料理、トマトスープが並び、栄養改善が国家規模で進んだ。
遊牧民は語る。
「草原は変わった。風の歌の中に、ガラスの光が混じるようになった。だが、遊牧の心は失っていない。自然と技術が手を取り合えば、草原にも果実は実るのだ。」
こうして、ガラス温室革命はモンゴルの未来を大きく変える転換点となった。
北方の黄金革命
ウランバートルの山田技術団は、モンゴル北部の冷涼な草原に日本式の寒冷地向け耐寒性ナタネ(菜種)を導入する計画を立ち上げた。理由は三つあった。
モンゴルは油脂自給率が極めて低い→ 輸入動物油に依存しており価格が不安定だった。
輪換放牧で回復した草原の一部を、輪作畑として活用できる→ 土壌が痩せていてもナタネは育つ。
搾油したナタネ油は、灯油の代替・食用油・石けん原料になる→ 新興工業を支える「万能油脂」として期待された。
山田技術団は、北部のスレレン川流域に初の菜種試験農場を設置し、日本から持ち込んだ足踏み脱穀機、圧搾機、濾過器を用いて、半年で「モンゴル産菜種油」を生産した。

黄金色の菜種油は「Алтны тос(金の油)」と呼ばれ、遊牧民たちに驚きをもって迎えられた。
新しい羽音
同じ年、北里医療団と協力した日本養蜂技術者・佐伯徳三郎は、北部モンゴルの花粉資源(ルピナス、アカツメクサ、菜種の花)に着目し、西洋ミツバチを用いた本格養蜂を計画した。
モンゴルの伝統的な養蜂は限定的で、蜂蜜は貴重品であったが、西洋式巣箱(ラングストロス式)と保温箱を採用することで、冬期の氷点下40度でも越冬が可能となった。
花とミツバチの連携効果
菜種の花が大量に咲けばミツバチが蜜を集め、ミツバチが増えれば菜種の受粉効率が上がり、菜種が増えれば再び蜜の供給が増える。
こうして草原に「黄金の循環(ゴールデン・サイクル)」が生まれた。
ヨーグルト文化との融合
南部のガラス工場で大量に生産された板ガラスと、風力発電+砂電池による安定電力が普及したことにより、ウランバートル周辺の温室農業では、すでにイチゴ栽培が成功していた。
日本の栄養学を学んだ北里医療団の医師が提案したのは、次の三つの食材を組み合わせた「新モンゴル朝食」であった。
菜種油で揚げたパン(ボール)または焼きパン
西洋ミツバチの巣蜜やハチミツ
ヤク乳ヨーグルト(アイラグ技術と乳酸発酵を組み合わせた改良型)
温室で育てたイチゴやラズベリー
大麦(ハダガ)を蒸して混ぜる栄養食

この新しい食文化は若い遊牧民と都市住民の間で人気となり、やがて「五宝膳(タボン・エルデム)」—五つの恵み—と呼ばれるようになった。
蜂蜜 → 天の恵み
ヨーグルト → 牧畜の恵み
菜種油 → 大地の恵み
果物 → 技術の恵み
大麦 → 健康の恵み
モンゴル人の栄養状態は大幅に改善し、子供の発育や感染症耐性も向上した。
北部産業の誕生
菜種油工場の稼働
1928年にはスレレン県に「モンゴル第一搾油所」が開設され、菜種油は都市の食堂、学校給食、軍の糧食にも採用された。搾りかす(油粕)は家畜飼料として需要が拡大し、乳牛・ヤクの乳量が増加して酪農も発展した。
養蜂業の拡大
ミツバチ農家はわずか1年で50軒を突破。蜂蜜は温室果物のジャム、パン菓子。伝統茶スーテーツァイの砂糖代替として利用され、市場は急速に拡大した。
北方加工食品産業の誕生
日本の技術団は、ガラス瓶工場(砂+ソーダ灰)で蜂蜜瓶・ジャム瓶を製造し、保存食品産業を発達させた。
ウランバートルの市場では「蜂蜜ヨーグルト+大麦+イチゴ」セットが1929年頃には完全に定着した。
モンゴル人の価値観の変化
従来、油脂は高価で貴重だったため料理は肉と乳中心であったが、菜種油の普及により、揚げ物、炒め物、野菜のオイル漬け、菜種油を使った石けんが一般家庭で使われるようになり、衛生と栄養が大きく改善した。
蜂蜜と果物の普及は子供たちに大人気で、「遊牧民は冬を越すために甘味を蓄える」という新しい思想も浸透した。
日本技術団の理念の浸透
山田技術団はこう語っていた。
『草原に合った技術を、草原の人の手で育てる。我々は道を示すが、歩くのはモンゴルだ』
この姿勢はモンゴル人から深い信頼を得て、1920年代に始まった近代化が1930年代後半には文化として根を下ろすことになる。
菜種油 → 食用油・灯油・石けん
西洋ミツバチ → 蜂蜜と受粉で農業を強化
ガラス温室 → 果物・野菜の多様化
ヨーグルト+蜂蜜+果物+大麦 → 新しい栄養文化
日本式技術と遊牧文化の融合 → 社会の安定と豊かさ
この年、モンゴル北部は黄金色の油と蜂蜜が流れる土地となり、後の「日蒙共同体」の基盤産業の一角を形成することになる。
あとがきのコーナー
太陽と風と砂を利用して食卓の充実まで昇華することができました。モンゴルを知れば知るほど、可能性に満ちた土地であることがわかります。
モンゴルの北西にウブス湖という大きな塩湖があり、こちらでミネラルがたっぷりの食塩(塩化ナトリウム)が無尽蔵に採れ、調味料や保存食に事欠きません。高タンパク質、高カロリーの食事は軍の糧食として最適であり、駐屯する北鎮軍のレーション(野戦糧食)にも加えられています。
近代化が進む都市部では逆に知的労働者が増大していくにつれ、ラマ僧侶のヘルシーな料理が見直されていきます。
モンゴル北部はドイツ地方の気候に近いことから、1940年代にはドイツ系ユダヤ人の亡命先として多くのユダヤ人がこの地に根を下ろしていきます。
100年先取りした持続可能なグリーン国家の基礎を日本はモンゴルで習得していきます。
次回もモンゴルの特集になります。
