目覚めた人、(目覚めてない私も)なぜ饒舌なのか。
最近、ネット上で「悟り」について語る長文をよく見かけます。
……中略……。
しかし、長い文章を読み終えたあとに残るのは、
「この人は悟ったのか、それとも文章に取り憑かれたのか?」という、なんとも言えない違和感です。
多くの人が思い描く「悟り」とは、聖者の沈黙や禅の「不立文字(言葉を立てない)」のような、静かで簡潔な境地でしょう。
実際に目にする発信の多くは驚くほど長文で、時に読む気が失せてしまうことさえあります。
私はあまりにも長い文章に出会うと、AIに要約させることがあります。
するとAIは、目覚めた人の気持ちが分かっているかのように、次のようにまとめてくれます。
悟りとは、自我が『自分は真我だ』と知ること。
目覚めるときは、自我は空(くう)へ収束する宇宙を超えた真我へ向かって進む。
……いや、そんな宇宙規模のワープの話を聞きたいわけではないのです。
私はただ、そんな高尚な長文を読むくらいなら、
その目覚めた人が「最近どんなガジェットを買って便利だったか」くらいの話を聞きたいだけなのです。
なぜ彼らは饒舌になるのか
ここからは、目覚めた人が語るとなぜこれほど長文になるのか、
少し冷静に仮説を立ててみたいと思います。
もちろん、難解な教えを丁寧に紐解くため、あるいは他者への慈悲ゆえに言葉が長くなることはあるでしょう。しかし、ネット上で見かけるそれには、どこか別の動機を感じてしまうのです。
仮説①:言語化への執着
説明すればするほど「伝わるはずだ」という誤解が、言葉を長くさせているのではないでしょうか。
目覚めた人には、きっと「言葉にできない領域」があるのでしょう。
しかし彼らは、それを言葉で説明しようとします。
「言葉にできない何か」を説明しようとする結果、生まれるのは長文の連打なのかもしれません。
聖者は「沈黙すべきときに沈黙せよ」と言いますが、彼らは「沈黙すべきときに言葉を浴びせたがる」のです。
仮説②:「分かってほしい」という欲求
ブッダや阿羅漢のように相手に応じて長く説法するのと、自分のために長く語るのとでは、意味が全く違います。(と、偉そうに分析している私のこの文章も、すでに十分すぎるほど長いです。)
「悟っても自我は残る」と彼らは言います。
もしそうなら、その長文の根底にあるのは次のような心理かもしれません。
「お願い、(あなた達には理解できないと思うけど)
私の悟りを理解して!」
それは、非常に人間的な欲求です。
文章が長くなるのは、悟りの深さではなく、
承認欲求の深さゆえなのかもしれません。
核心:言葉は「指」であり「月」ではない
古来よりの比喩に「指月の喩え」があります。
悟りを語る人々は、月を指すための「指の爪」を完璧に磨き上げようとして、その美しさや構造を延々と語ります。
しかし、読者が見たいのは指の爪先にある「月(真理)」です。
文章を美しく仕上げようと思えば思うほど、そのキラキラな指先に自分だけが見とれてしまう。
悟りを語る文章が長いほど、むしろ悟りから遠ざかっていくというパラドックスが、そこにはあります。
結び:悟りの言葉とは
悟りとは、本来は言葉には依存できないものだと思います。
そして、本当の聖者の言葉には、どこか読む人の余計なざわつきを静める響きがあるはずです。
もしある文章を読んで疲れてしまうなら、それは悟りではなく、目覚めた人の「自分語り」を見せられているだけなのかもしれません。
煩悩を滅尽した初期仏教の聖者たちは、悟った瞬間に(その後の長い説法の中でも)自分の境遇を誇ることなく、ただ淡々と短く言いました。
「生は尽きた。梵行は成就した。なすべきことは成し終えた。」
このような短い言葉、あるいは偈(げ)で悟りの真髄を語る人に出会いたいものです。
そして、その人たちが今、どんなガジェットを楽しんでいるのかを知りたいのです。
