《民藝誕生100年ー京都が紡いだ日常の美展》京都市京セラ美術館開催に想ふ
さて、のっけから異を唱えるようで申し訳ないのだが、京都市京セラ美術館がタイトルに「日常の美」とした意味を汲み取ることが出来ずにおり、この『民藝』という言葉を生み出した芸術家たちの心の置きどころを軽んじてしまったのではないかと想えてしまうことをとめられないでいる。
本来的には、「民藝」という言葉を判りやすく説明する言葉には「用の美」という言葉がこの100年寄り添って来ていたはずである。良い言葉ではないか。用いる美である。何故、先人たちの思いを当世を生きる者たちが上書きをしようとするのか。考える、思い寄せる、想像する行為を止めようとするのか。
芸術とは秘するところあって芸術足り得るのである。民藝という言葉を生み出し使い始めた者達が「用の美」という言葉を受け入れ形容してきた歴史があるのであれば、後世の者達はそれを受け継ぐことが大切なのではないか。
美しい言葉である。
どうも恣意的が勝って読めてしまい興ざめを覚えるのである。
京都市京セラ美術館さんには大変申し訳ないが、京都市京セラ美術館としてリニューアルオープンを迎えた展示の際に筆者は訪ねている。その際、この「民藝」の立役者の一人でもあった作陶家・詩人・哲学者 河井寛次郎の作品に触れているのだが、「三次元の宇宙」を表現する作陶芸術作品を壁一列に配し、二次元で表現しようとする愚かな展示に辟易したものだった。
京都市京セラ美術館さんへのお運びはお薦めするが、折角だ、お訪ねの際は河井寛次郎記念館へも併せてお運び頂くことをお勧めする。
美術館で眺める河井寛次郎作品と、暮し場所、仕事場所で生み出された民藝・用の美の違いを肌で感じて欲しいところである。
そして考えて欲しい。民藝とは何か。用の美とは何か。そこかしこに溢れる河井の言葉に触れたなら~ きっと落とし込むことは然程難しくはあるまいて。
了
