エロ小説(官能小説)にみる文学的価値 2689字
エロ小説(官能小説)にみる文学的価値
また、随分と大上段に振り被った処からのタイトル付けとしたものである。文学を学問として修めたことの無い人間が書く「文学的価値」というものが、どういう結末を結ぶのか愉しみだという読み手もおられるかもしれない。御用とお急ぎのない方は、ヒマつぶしに読んでみられるのも、ここの書き手の脳の構造を知る上で意義深いかもしれぬ。
お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
そもそも、わたしは作品の評論、評価に関わる本というものに、腰を入れて読んだ記憶はない。好きな純文作家の手による、作品の評価を中心としたものは偶然に読んだ記憶があるくらいのものだ。その記憶ということになると、これまたおよそ心許ない。したがって、評価。評論の類となると書きようもなく、およそ読書感想文が如き様相となるのも道理と思えるのであります。
そのわたしが、「エロ小説(官能小説)にみる文学的価値」という原稿を書こうというのだから、仕上がりは、推して知るべしなのだが。
わたしの大好きな「エロ・官能小説」の書き手に柚木怜という作家がおられる。筆者も書き綴る場として参加しているnoteを作品の告知場として使いながら、様々な場所で作品を発表しておられる。
主に昭和の時代を背景としたエロ小説(官能小説)の書き手なのだが、これが頗るつきに良い作品が多い。時には純文学的切り口をみせつつ、ある時は大衆小説的切り口から、昭和という時代をノスタルジックに~ エロをセピアに染め上げた世界観で読ませてくれる。
ここは読者としての感じ方であるからして、書き手におかれてはご容赦願いたい。
さて、皆さんは、エロ小説(官能小説)というジャンルを読んだことがあるだろうか。
筆者がエロ小説(官能小説)というジャンルに初めて触れたのは、小学校の4年生であるから、今から52年前のこととなる。「大衆小説全盛期」でもあった時代。当時の週刊宝石などはわたしの好奇心を伸長するに大いに役立ってくれた。
あの頃の週刊宝石をはじめとする大衆小説の世界は、エロと一般小説の棲み分けが曖昧だったと記憶している。
頁を開くと、エロ系、純文系、大衆系が混然一体となり本を成していた。
さてここでもう一度お尋ねしてみたい。皆さんがエロ小説(官能小説)というものを読むとき、どの様なポジション取りで読まれるのだろう。一人称で読むのか、二人称で読むのか、三人称で読むのかという話しである。
多分「投影」という切り口は少なからず持っておられたのではないだろうか。即ち、作中にて繰り広げられる濡れ場描写に疑似的な体験感覚を自己に投影していたのではないだろうか。俗にいう処の妄想である。
子供のころから、大人になっても、エロ本は買えずエロビデオも借りることが出来なかった筆者にとって、活字が齎してくれた世界は、妄想を通じ、類稀なる想像力と洞察力、観察力と感性を育んでくれた。
ビジュアルが簡単に像を結ばないという現実が下地となり、いつの間にか想像を得意とする子供として育ち、中学の頃には、行間に滲む息づかいや句読点に顕される舌技の巧みさを感じられるまでになってしまったのである。
筆者はこの少年時の体験に、今となってはとても感謝している。おかげで、小説らしきものを書く上においては重宝することこの上ない。
が、残念ながらエロ小説(官能小説)を書くことは出来ないのがわたしでもあるのだが。
さて、エロ小説(官能小説)と云われる作品群が、文学界においてどのようなポジション取りであり、変遷をたどって来たのかとなると皆目となるのだが、先にも書いたように、昭和の中期においてはその棲み分けは、およそ不確かではなかったかと記憶している。……と、書くと叱られそうではあるのだが。
昭和の20年代から40年代、純文学の旗手として台頭した、第三の新人と云われる書き手の活躍が華々しかった。
大正、昭和初期に評価されることの少なかった「私小説」という形態が脚光を浴びた時代でもある。
「私小説」とは、読んで字のごとく、題材を自分の身の回りのことから拾い出し、テーマを忍ばせ作品とした小説であるということになるだろう。
わたしの敬愛する吉行淳之介などは昭和私小説の書き手として知られた存在であり、世に出た作品の多くに「男と女」、褥の描写が散りばめられていた。赤線、青線、鳩の町と書けば懐かしがってくれるご仁もおられよう。
後の昭和50年代。ポルノが変わり始め、原作を純文学にもとめた作品がポルノ映画として銀幕を飾り始めたのだが___________。
さて、わたしの純文学とエロ小説(官能小説)の読み方には一つの共通した特徴がある。自己投影するのである。書き手による創作、私事という読み方は一切しない。どのような作品を手にしても、自己に置き換え、自己に投影したところから読み始めるのである。これは、未だに続いている読み方である。
誰に教わったわけでもない。しかし、敢えて書かせてもらうのであれば、エロ小説(官能小説)が先生となり教えてくれたと云えるだろう。
お陰で、私小説を読んでもデバガメ的な下卑た読み方をしなくて済む本読みの姿勢は身に付けることが出来たと感じている。
自分に投影し落とし込み、書き手と読み手の溝を埋める上で、自己に投影する読み方と云うのは実に理に適うのである。言葉を変えるのであれば、他人事として読むか、自分事として読むかとなるだろう。
気をつけて欲しいのは、わたしの場合、共感を目的としてこれらの作品を読むことは無い。結果的に共感というファクトが顔を覗かせることはあるが、副次的効果のひとつということであって、本読みの目的になることは無い。書き手と読み手の溝を埋めたときに感じられる"感動"を求めているのである。
既に結論を書いてしまったようだが、筆者にとってのエロ小説(官能小説)にみる文学的価値とは、本を読めるようにしてくれたこととして途轍もなく大きな存在なのである。
吉行、野坂、近啓、阿川、遠藤、北、安岡、そして三島、太宰、谷崎
後に筆者が手を染めてきた作家たちの作品を読めるように育ててくれたのは、間違いなく、エロ小説(官能小説)が存在してくれたからなのである。
どうだろう。紙の本の行く末に明るい材料が見えない昨今。エロという切り口をもう一度見直してみるのも無駄にはならぬのかもしれぬ。
泉下の人となった瀬戸内の婆様然り、永井荷風然り、昭和44年6月の好色の系譜に代表される書き手たち。文学の、本読みのすそ野を広げる上で、エロは文学的価値をリセットするに役立つのかもしれないと考える今日この頃なのだが、文学を修めていない者の戯言と嗤って頂くことも…… 意味無くはなさそうである。
了
文 飛鳥 世一
