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チェスキー・クルムロフ、蝋人形館前にて。サトシ・ナカモトの友人たち 第61章

石畳は朝露をまとい、古い街並みはまるで中世から時間だけが取り残されたような静けさを漂わせていた。

蝋人形館の前で立ち止まった三人は、スマートフォンの画面を囲むように覗き込んでいた。

そこには、ニューヨーク地下鉄の巨大広告が映っていた。

「IQ150以上」
「高身長」
「疾患リスクを低減」
「あなたが望む未来の赤ちゃんを。」

地下鉄の壁一面を覆う広告。

しばらく誰も口を開かなかった。

最初に沈黙を破ったのはバグだった。

「……こんなことがあっていいのか。」

その一言には怒りというより、文明そのものへの戸惑いが滲んでいた。

高橋は苦笑いを浮かべる。

「もう、なんでもありなんだよ。」

「昔はSFだった。」

「いや、二十年前なら陰謀論扱いだった。」

「十年前なら都市伝説。」

「今じゃ広告になってる。」

ドリップスが肩をすくめる。

「日本だって豚の腎臓を人間へ移植してるじゃないか。」

「異種移植だよ。」

「命を救うためだと言われれば、多くの人は反対しにくい。」

「技術は必ず境界線を越える。」

バグはゆっくり歩き出した。

ヴルタヴァ川を見つめながら呟く。

「人間は便利になることを止められない。」

「だけど便利になることと、人間を設計することは違う。」

「命を救う医療。」

「命を選別する医療。」

「この二つは同じように見えて全然違う。」

高橋は石畳を靴先で軽く蹴る。

「でもさ。」

「親の気持ちになればどうだ?」

「病気にならない子供。」

「健康な子供。」

「誰だって願う。」

「医者から"この胚なら難病リスクが低いですよ"と言われたら?」

「ほとんどの親は選ぶ。」

ドリップスも頷く。

「そこまでは理解できる。」

「でも広告は違う。」

「IQ。」

「身長。」

「スポーツ能力。」

「目の色。」

「そこまで商品化するのか?」

三人は蝋人形館のガラス越しに歴史上の人物たちを眺めた。

王侯貴族。

芸術家。

革命家。

科学者。

誰も自分が遺伝子で選ばれて生まれてきたわけではない。

偶然。

偶発。

巡り合わせ。

それが歴史を作ってきた。

バグが笑った。

「もしニュートンが胚スクリーニングで落とされていたら?」

高橋も笑う。

「落ちてたかもな。」

「発達特性があるから。」

「エジソンも。」

「アインシュタインも。」

「ゴッホも。」

「坂本龍馬も。」

「織田信長も。」

「みんな規格外だ。」

ドリップスが続ける。

「企業は平均値を売る。」

「でも歴史は平均値から生まれていない。」

「異常値が文明を動かしてきた。」

「人類最大の発明は、たいてい変人が作っている。」

バグが笑う。

「AIもそう。」

「最初は変人のおもちゃだった。」

「暗号資産もそう。」

「最初は犯罪者扱い。」

「全部そうだった。」

高橋は急に真顔になる。

「でも今回違うのは。」

「商品が人間そのものだ。」

その言葉で空気が変わる。

ドリップスはゆっくり頷いた。

「今までは車だった。」

「スマホだった。」

「家だった。」

「これからは人間が商品になる。」

ヴルタヴァ川を白鳥が静かに流れていく。

観光客の笑い声だけが響いていた。

バグは空を見上げた。

「ところでさ。」

「知能って何だ?」

誰も答えない。

バグは続けた。

「IQ150。」

「だから何だ?」

「人を愛せるのか?」

「孤独に耐えられるのか?」

「親を看取れるのか?」

「友人を裏切らないのか?」

「笑わせられるのか?」

「人生を面白くできるのか?」

「IQでは測れない。」

高橋はスマホをしまった。

「数字は便利なんだ。」

「だから企業は数字を売る。」

「身長185センチ。」

「IQ160。」

「糖尿病リスク5%。」

「全部数字。」

「数字なら価格が付く。」

「価格が付けば市場になる。」

ドリップスが苦笑する。

「市場になると競争になる。」

「競争になると広告になる。」

「広告になると欲望になる。」

バグが静かに言った。

「欲望は止まらない。」

「高身長なら。」

「もっと高身長。」

「IQ150なら。」

「170。」

「筋力。」

「美貌。」

「寿命。」

「感情。」

「性格。」

「全部設計対象になる。」

高橋は思い出したように言う。

「サトシ・ナカモトが残したのは。」

「人を設計する技術じゃなかった。」

「信用を設計する技術だった。」

「中央管理者がいなくても成立する社会。」

「それが革命だった。」

ドリップスは頷く。

「人間を改造するんじゃない。」

「社会のルールを書き換えた。」

「そこが違う。」

三人は再び歩き始めた。

チェスキー・クルムロフ城が朝日に照らされている。

バグは最後にぽつりと言った。

「結局さ。」

「技術そのものに善悪はない。」

「火も。」

「電気も。」

「AIも。」

「遺伝子編集も。」

「全部そう。」

「問題は。」

「誰が。」

「何のために。」

「どこまで使うか。」

高橋は笑った。

「人類はいつも技術より倫理が遅れる。」

ドリップスは深く息を吸い、城を見上げた。

「だから歴史は面白いんだ。」

「文明は、技術で進歩する。」

「だけど文化は、"ここから先は踏み込まない"という人間の自制心で育つ。」

「もし、その自制心まで市場原理に売り渡してしまったら。」

「未来は科学が決めるんじゃない。」

「価格表が決めることになる。」

三人は言葉を失った。

石畳を踏む靴音だけが、小さく古都に響いていた。遠くでは教会の鐘が鳴り、六百年前と変わらぬ風が街を吹き抜ける。

文明は驚くほど速く走る。

しかし、人間はその速さに見合うだけの知恵を、本当に手に入れているのだろうか。

その問いだけが、誰にも答えられないまま、三人の背中とともに古い街角の向こうへ消えていった。

フジ
JINSEN BOTTI
ローマ倶楽部


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