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ようかい汁

山口県山陽小野田市のドライブインみちしお。
貝汁が有名で福岡在住の頃、何度か訪れた。
どかた流にアレンジした貝汁を作りながら、妖怪と呼ばれた時代劇の定番悪役を妄想した記録。


材料

浅蜊    10粒
葱     半分
昆布    5センチ
鰹節    1パック
白味噌   お玉半分
九州味噌  お玉半分
白摺り胡麻 好きなだけ

江戸幕府の大学頭、つまり儒學のトップだった林家の三男として寛政八年(1796)に誕生したのが鳥居耀蔵。
耀蔵は三男なので旗本の鳥居家に婿養子入り。因みに父親も三男で林家に養子入りした人物で元々は美濃岩村藩主、松平家出身。
血筋は松平で儒學の家で育ったことから、幕府命のガチガチの超保守派。
後に甲斐守に任官したことから耀蔵と甲斐から耀甲斐、妖怪と呼ばれた。
十二代将軍、徳川家慶の時代、老中となった水野忠邦は天保の改革を主導。
耀蔵は水野の配下となって活躍。その分野は諜報つまりスパイ活動。
この頃には日本近海に外國船が姿を見せるようになり、鎖國が揺らぎ始めていた。それに應じて蘭學人氣が高まっていた。
儒學の家に生まれ育った耀蔵にとっては面白からざる傾向。
渡辺崋山や高野長英といった蘭學者達を無人島に渡航する計画を立てていたという罪で捕縛。蛮社の獄と呼ばれる蘭學弾圧事件。
罪状は耀蔵のでっち上げとも言われる。


昆布を一晩、水に漬けて出汁を取る。


江戸には南町と北町の二つの奉行所。これは南北に分けたのではなく、月番交代制。
北町奉行が遠山金四郎。所謂、遠山の金さん。↓

南町奉行は矢部定謙。
どちらの奉行も天保の改革には反対派。
耀蔵は矢部が大坂奉行だった時代に不正があったと告発。これで矢部を罷免に追い込む。
「町々で惜しがる奉行やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこがようぞう(耀蔵)」という落首が庶民の間で流行った。
この後、矢部は抗議の意味を込めて絶食して死亡。この経緯からすると、これも耀蔵のでっち上げ?
遠山に対しては幕閣に働きかけて大目付に昇進させて、奉行職から遠ざけた。出世のようでも大目付とは仕事は何もない閑職。
邪魔者を遠ざけて、耀蔵は改革を大いに進めた。
でっち上げばかりではなくおとり捜査も用いた。


昆布を除いて浅蜊を茹でる。

改革の一つとして贅沢禁止令。
雛人形も売買禁止でしたが、ある大名家がどうしても欲しいと商人に頼み込む。
禁止令があるけれど、お武家様にはなかなか逆らえない。そこで商人は代金は要らないのでお譲りしますと返答。
人形を引き渡した後、大名家の使いが謝礼を持って來た。
受け取れないと商人は断るが、代金ではないとして押し付ける。
使いの者は自分がネコババしたと思われては困るので、受け取りに署名を求める。
謝礼だから少額と思いきや、ほぼ正札通りな金額。
想像通り耀蔵が仕掛けた罠。
商人は贅沢品を売買したとされて江戸追放、財産没収。
これは一例。万事がこんな風なので狙われたら逃げられない『蝮』とか『妖怪』と呼ばれた。

貝が開いたら刻んだ葱と鰹節投入。

天保の改革の目玉として水野忠邦は譜代大名や旗本に上知令を発布。
これは江戸や大坂周辺に領地を持つ武家に領地を返上させて、幕府直轄領にして防備を固めるという計画。
大名や旗本には替地を与えるとはいえ、領地替えは大変ということから大名や旗本ばかりか将軍まで反発。
この動きを見た耀蔵は水野を裏切る。
これまでの活動で知り得た機密情報を水野の対抗馬だった土井利位に横流しすることで土井側に付いた。
耀蔵の読み通り水野は失脚。
その半年後に江戸城本丸が火事。
土井は再建費用を大名に献金させようとしたが応じる者がなく、将軍から不興を買う。
外交問題等も紛糾。ここで水野が老中に返り咲くというまさかの展開。


沸騰したら火を止めて味噌を溶く。白摺り胡麻も混ぜる。

「おまえはクビだ」
返り咲いた水野は当然、耀蔵に報復。
弘化二年(1845)職務怠慢と不正で有罪となった耀蔵は全財産没収の上、大名家へお預けに。
不人気だった鳥居耀蔵ということで、なかなか預かり先も定まらず。
肥後人吉の相良家、出羽岩崎の佐竹家、最終的には讃岐丸亀の京極家に身柄は引き取られた。
「金毘羅へ嫌な鳥居を奉納し」とは耀蔵の処分を読んだ川柳。
讃岐には金毘羅様こと琴平神社があることに掛けた川柳。
先述した落首といい、江戸っ子はこうした諧謔が上手い。


ようかい汁

本家?みちしおの貝汁は昆布と鰹節の出汁に白味噌ですが、白味噌だけだと甘いので九州味噌を混ぜてコクと塩氣を増した。
みちしおは浅蜊たっぷりですが、どかた流は大粒の北海浅蜊を使用して量より質重視。というより程よい大きさの浅蜊は中国産しかなかったので、大粒の北海道産使用。
葱のアリシンが食欲を増してくれる。
優れた抗酸化食品である摺り胡麻も足したことで栄養価も向上。
参考にどうぞ御覧下さい。↓

丸亀にお預けとなった耀蔵ですが、悪評高い罪人ということから侮られて、私物を盗まれたり、あからさまに無視されたりという対応に耐えながらの幽閉生活。
食べた枇杷の種を窓から捨てたら、丸亀を出る時には発芽した枇杷が大木に育っていたという長きに渡っての軟禁状態。
儒学の知識豊富で、薬草の知識もあった耀蔵は頼まれて儒学の講義をしたり、調合した薬草を分け与えたりしている内に丸亀の人々に尊敬されるように。
時代は移り、黑船来航、尊王攘夷や公武合体等の嵐が吹き荒れるが、耀蔵には無縁。
明治維新の恩赦で幽閉を解かれるまで二十三年経過。
「私は幕府の命令で此処にいるので、将軍様の命令がなければ動かない」と耀蔵はなかなか丸亀を出ようとしなかった。
この返答からわかるのは、耀蔵は幕府に仕えていたのであって水野に仕えていたのではない。失脚する水野に付き合う訳にはいかないので裏切ったということ。

実家の林家を頼って東京と名前を変えた江戸に耀蔵は戻る。
「私の言う通りにしなかったから、こんなことになった」と嘆いた。
外國人を近づけず、皆がそれぞれの分を守って暮らす古き良き江戸を守るために悪名を被っていたとも言える。
明治六年(1873)まで生存。
その頃には水野忠邦も遠山金四郎もとっくにこの世に居ない。
必死に守ろうとした江戸が消え去るのを鳥居耀蔵はどんな思いで眺めていただろうと妄想しながら、ようかい汁をご馳走様でした。

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