アトピー30年・不妊治療・夫の死別。「肌もお金も守る」と決めた私が、このnoteに書き続けること
はじめまして。 有由華(あゆか)です。
発信を始めてしばらく経ちましたが、改めてちゃんと自己紹介をしてみようと思います。
敏感肌改善アドバイザーとして、肌のこと・お金のこと・ひとり親としての暮らしを発信しています。
立派な人の話じゃありません。
48歳・新米社長。
4歳の息子を育てるひとり親。
寝かしつけで息子と一緒に寝落ちして、深夜に「やばい、何も終わってない…」とパソコンを開く人間です。
それでも書き続けるのには、理由があります。
少し、話させてください。
かゆくて、眠れなくて、写真は変顔でごまかしていた
赤ちゃんの頃からアトピー性皮膚炎でした。
本格的に症状が出始めたのは、小学3年生のころ。
親が新築してくれた家に引っ越したのが、ひとつのきっかけでした。
バブル時代の家は新建材がたっぷり使われていて、今でいうシックハウス状態。
化学物質に敏感な私の肌には、あまりよくない環境だったんだと思います。
膝の裏、肘の内側、手首、顔。 掻いて、掻き壊して、また悪化する。
そのループを何年も繰り返しました。
眠れない夜が続く。
授業中も手足が気になって、先生の声が頭に入ってこない。
写真を撮られそうになると、「機嫌な顔」か「変顔」でごまかしていた。
あれは照れ隠しじゃなくて、自分の肌を見られたくなかったんだと今ならわかります。
「どうせ体質だから」
「一生付き合うものなんだろう」
——そう諦めていた時期が、長くありました。
お母さん、あの時ちゃんと聞いておけばよかった
中学生の頃、母が自然派化粧品のアドバイザー資格を取りました。
きっかけは、間違いなく私の肌のことだったと思います。
でも反抗期まっただ中の私は、素直に聞けなかった。
使い方はいつも自己流。
当然、肌は変わりませんでした。
転機は、結婚式の準備でした。
母と二人三脚でスキンケアを見直したら、顔も背中も手指も、みるみる落ち着いていった。
「え、ちゃんとやると変わるんだ」
その体験が、今の私の原点のひとつです。
25歳で母を看取り、私はアドバイザーになった
ところが、結婚式が終わってすぐ。
母が肺がんの末期だとわかりました。
勤めていた会社を辞めて、看病に専念しました。
肺がんなのに、視神経に転移して、目が見えなくなり。
脊髄に転移して、足がしびれ、動けなくなり。
「助かってほしい」という気持ちが強すぎて、
母の気持ちより自分の願いを優先してしまったこともある。
良かれと思って、入院中の病院から整体に連れ出した帰り道。
よほどつらかったようで
「気持ちは嬉しいけど、もう行きたくない」と泣かれました。
今でも、それが心に残っています。
母は50歳で旅立ちました。
最期は、県内にできたばかりだった、山間部にある病院の緩和ケア病棟でお世話になりました。
毎日通って、時には一緒に寝泊まりして。
25歳の私には、あまりにも早すぎる別れでした。
もっとたくさん話したかったな…
そんなふうに母を見送ったあと、自分の肌ケアも化粧品の調達も全部自分でやらなければならなくなり、
その流れで私も化粧品アドバイザーの資格を取ることに。
動機はカッコよくありません。
「自分の肌が良くならないと困る」
「仕事になるなら助かる」
——それだけです。
でも、学び始めたら面白かった。
肌の仕組み、成分、洗い方、保湿の考え方。
良かれと思ってやっていたことが、肌を傷めていた。
知識が変わったら、肌が変わりました。
そこから約20年、化粧品販売を続け、営業所長も経験しました。
組織の中でパワハラ・セクハラを経験して、信じていた製品の成分がいつの間にか変えられていたこともありました。
一度はやる気を失い、メーカーを移ることも。
それでも続けてきたのは、お客様の肌が変わっていく喜びの瞬間を、何度も見てきたからです。
肌が変わると、表情が変わる。
表情が変わると、人生の選び方が変わる。
他には代えがたい、とても嬉しい経験。
これは、私自身が一番よく知っています。
結婚20年で授かった息子は、奇跡の1個だった
結婚してからずっと、子どもを望んでいました。
でも、なかなか向き合えなかった。
男性不妊の問題もあり、「何で私だけ痛い想いをせにゃならんのだ」と本気で思っていた時期もあります。
今思うと幼かった。
でも、それが当時の正直な気持ちでした。
40歳になって、「このまま諦めていいのか」という気持ちが強くなり、ようやく本格的に動き出しました。
もともと保険適応ではない時代でしたが、初めから特殊なクリニックでの治療を選びました。
1回目の体外受精は、自費で約180万円。
正直、かなりの高額です。
おかげさまで妊娠はしましたが、6週で流産しました。
その後、自分に甲状腺疾患があることも発覚。
宿った赤ちゃんが育たなかったのは、おそらくそれが原因でした。
「不妊の原因を夫だけに押しつけていた」と気づきました。
かなりこたえた。
あわせて、知識がないまま勢いで行動したことを悔やみました。
さらに子宮頸部の手術、転院、採卵の繰り返し。
受精卵の遺伝子検査(PGT-A)を経て、移植に適する「A判定」の受精卵をやっとひとつ得られました。
その1個が、今の息子です。
結婚して20年。ようやく授かった命でした。
自分の体を整えることが、未来を守ることだと気づいた
妊娠中は切迫早産で約2ヶ月入院し、出産は緊急帝王切開、大量出血で輸血も受けました。
それでも息子は産まれてきてくれた。
長い道のりでした。
お金も時間も、本当に全部つぎ込みました。
でも、食事を見直し、体を整え、諦めずに治療と向き合い続けたことが、息子に会えた理由のひとつだと思っています。
自分の体を守ることは、大切な人の未来を守ることでもある。
その実感が、今の私の発信の根っこになっています。
46歳で最愛の夫を看取り、お金の無知に直面した
息子が1歳を過ぎた頃、夫が肺がんの4期だとわかりました。
せっかく3人で歩んでいこうとしていた未来が、急に霞んでいくような感覚がありました。
夫は自分なりの治療方針を持ちながら、できる限りのことに取り組んでくれました。
最終的に、自宅で在宅緩和ケアを選びました。
亡くなる当日の朝まで、会話ができました。
日常生活を送れていました。
それは夫の意志の強さと、家族への優しさのおかげだと思っています。
2024年秋、夫が旅立ちました。享年51歳。
25歳で母を、46歳で夫を。
私は二度、大切な人を見送りました。
悲しむ間もなく「何も知らなかった」と気づいた
夫を看取って始まった、手続きの嵐。
役所、保険、口座、税金、制度……
夫が遺してくれたお金の前で、私は立ち尽くしました。
「これをどうすればいいんだろう」という途方に暮れる感覚が、先に来ました。
FPさんや保険の専門家に相談しても、ピンとこなかった。
後から気づいたのですが、提案が悪かったのではなく、私に「判断する軸」がなかったんです。
相手の言葉を受け取るための「器」が、私の中になかった。
その危機感から、二人の師匠のもとでお金と経営を学び始めました。
そして2025年、株式会社を設立。
1年目の決算を師匠に見ていただいたとき、「言う事なし!」と言ってもらえました。 思わず泣きそうになりました。
でもそれはゴールじゃなくて、スタートラインに立てたということ。
2期目は、もっとちゃんとやらなきゃいけない。
そう気持ちを引き締めながら、名古屋から帰ってきました。
このnoteで書いていくこと
肌のこと。 アトピー、脱ステ、敏感肌、スキンケア迷子。正しい知識で肌を守る方法。
お金のこと。 ひとり親になってからの学び、会社設立、制度、備え。知識で身を守る方法。
暮らしと日常のこと。 4歳息子との育児カオス、深夜作業、寝落ち、ポンコツな毎日。
一見バラバラに見えるかもしれません。
でも私の中では、全部つながっています。
肌も、お金も、正しい知識があれば守れる。
アトピーで悩み続けた子ども時代。
反抗期で素直に聞けなかった、あの頃の後悔。
180万円かけて流産した夜。
夫を看取って始まった、手続きの嵐。
全部あって、今の私がいます。
完璧な人の話ではありません。
でも、同じところで悩んでいる誰かの、小さなヒントになれたら。
そう思って、書き続けます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
こんなふうに、完璧じゃない私が、完璧じゃないまま発信しています。 それでもいいと思ってくれる方、ぜひ「スキ」を押してほしいです。
それが、私が書き続ける一番の力になります。
あなたの「スキ」と「フォロー」が、私を動かす原動力になります😊
それでは! 今日も絶好調✨
有由華(あゆか)でした。
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