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敬愛や敬意の表現としてお金を使いたい〜お金をもらっても譲れないこと

理解し、記憶した判例は何万とあるだろう。
骨に刻むように暗記した。

新しい感情を呼び起こしてくれた小説は何千冊あっただろう。
幼い頃、入院中のベットの中ですら、時間を惜しむように読んだ。

北斎や蔦屋重三郎の絵付きの物語を目にした瞬間、その場から動くことができなくなった。入場制限をするほど人が溢れる中で並びながら読んだ物語、私は蔦屋重三郎の世界に入った。

そうやって、尊敬する文学者の元に足を運び取材をして正確な知識や情報を手にいれ、実際にペンだこを作りながら、その名の通り血の滲む努力を積み重ねて表現力を磨くことに熱を注ぐ。この取り組みを10年も20年も継続してきた人は、私だけではないだろう。心に溢れる見えない感情を言葉に変えて見せてきた。情熱と時間をかけてクリエイターの培った感性はプライスレスであり、誰にも真似できない。絶対に奪われてはいけないかけがえのないものである。
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先日、noteを開くと信じられない言葉が目に入った。作品は要らない、表現過程や表現方法といった教養を下さい、AI事業者の学習用データとして利用するために、対価は払うからと言う言葉であった。お金の使い道として、作品たる成果に対価を払うことは素晴らしいと私は思う。なぜならその対価は、尊敬、敬愛、共感などの評価なのだから。
しかし、成果たる作品は要りません、傾向分析としてただ利用される、それはお金に使われていることに他ならない。
とある出来事に対し、湧き上がる感情を言葉に変換し、思いを人に見ていただく、その表現過程や表現方法は売り物ではない。表現過程や表現方法をコピーしたいから買う、それはお金の使い方として誤っている。なぜなら、人の努力で出来た作品を見ていない、すなわち尊重していないのだから。
作品に対し、共感や感動、憤りなどがあってこそ、購入という形で人を尊重する。だから、敬意や敬愛の表明こそがお金の本当の使い道だろう。
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話はそれる。
毎日のように、坐骨神経痛の家族に変わって買い物に行っていたから、幼いといえども買い物は日常にあった。しかし、この日は、特別だった。世界で一番可愛がっていたきょうだいの6歳の誕生日プレゼントを買いに行くのだから。
自転車に乗って、到着した文房具屋さんで私は紫色の物を探した。青色はたくさんあるのに紫色の物が中々見つからない。種類がないから、買うものは自動的に消しゴムや鉛筆のキャップに決まった。合計、1000円分の商品を会計後にラッピングしてもらい、かばんに隠して持った。
明日、喜んでもらえるかなと、ウキウキワクワクして自転車で帰った。

翌日、喜んでくれたのはきょうだいよりも家族だった。
「りりいはお金の使い方をよく分かっている。溜め込んだお年玉を何に使うのかと見ていたら、きょうだいの誕生日プレゼントだったなんて。」
と言って、頑なに拒む私に、それでもと言って1000円を握らせてくれた。

家族の喜びは、私にお金は敬愛の表明に使うべきと教えてくれたのだった。
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AI技術の進歩で書くことは楽になるかも知れない。しかし、書くことが楽になったとしても、湧き上がる自分の思いは自分の言葉で伝えることこそ、生きていると私は思う。
AIには生きている思いを伝えるための、表記ゆれの修正等を頼むのであれば分かる。しかし、書くことは、人にしかできない。思いがないと表現もないのだから。心あっての表現を、心ないAIにお金なんかでは渡せないだろう。
心が生きている限り、思いは湧き上がり、溢れる感情を見せるためクリエイターは書くことを辞められない。辞められないのに、AIに渡す。そんなかけがえのないことを奪うようなことは、お金の使い道としてあるべき姿とは、私には到底思えない。

お金はクリエイターの心の声が見えた時に、その表現への評価や、溢れる想いへの共感の表明のために使うもので、人の脳をコピーする行為に使うものではないはずである。

もっともAIに書かせることそのもの全てを否定しているのではない。私にとっては、AIに書かせることは、お金の使い道として受け入れ難いということである。
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だから、私のお金の使い道は、尊敬や敬愛の表明にある。決して、過程を盗む行為に使うものではない。それは、思いのない使い方で、努力を踏みにじる行為に感じるから。
そして、敬愛にお金を使った時、喜んでくれた今は亡き家族の顔を、私は何度も思い出すだろう。あの時の笑顔を思い出している今、AI事業者の学習用データとして利用されることに、同意することはあり得ない。

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