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しくじり建築学生 俺みたいになるな

プロフィールに、というか名前に「建築学生」と書いているくせに建築の話を一切していなかったので、ここで私の好きな建築及び建築家のタイプについてお話ししようと思います。

設計課題という名の「3Dお絵描き」


一言で言うと、「超変なもの」を作ってきました。

美術館を水中に埋めるだとか、保育所の天井を膜構造にして光を透過させるだとか、螺旋階段状のカフェを作るだとか。

極め付けには、小学校のグラウンドにガラスでできた無数の球体を立体的に配置して、その形状の面白さに満足していました。

形の面白さだけにこだわり、実際に建ったときの用途だとか効果だとか、そういう側面がスカスカな自分の設計課題のことを、私は愛情と自虐の両方を込めて「3Dお絵描き」と呼んでいました。


(そもそもあんまり行ってなかったけど)エスキスで毎度言われたのは、

「もうちょっと実現する時のことを考えよう」
というのと、
「この空間の用途は何だ」
この2点。


そもそも生徒みんな正しい力学計算なんてできないんだから、どんなに安牌なもの設計したってどうせ実現不可能なんだし、「実現できるか」なんて考える必要なくない⁉️
それなら思いっきりファンタジーな建築作った方が面白くない⁉️

そんで、用途なんて無くていいでしょ⁉️
過ごし方が決められていない広場みたいな空間が人間の感情に訴える造形で作られていたら、それだけでその場所は『居場所』になり、『人が集まる場所』になる。
そういう感情的な空間じゃだめなの❓
分かりやすい用途がないと、空間は存在してはいけないの⁉️

と内心キレ散らかしていたので、教授のそういったアドバイスはフル無視の日々でした。(良くないです)


これはあくまで私の主観ですが、
現代で評価される【建築設計】とは、「用途ごとに空間をどのように配置することでどのような因果関係が起きて、どんな営みが形成されるか」を語る力だと思っています。(まずこの説明が抽象的でオワリ)

そして、建築設計をそのようなものとして捉えた時、私はあまりにも「建築設計に向いていない」人間でした。


私の建築学生生活


このようにまあ、エスキスも幽霊レベルの参加度で、作品も全然教授に刺さらず評価されない不真面目人間だったため、

他の人の作品や設計課題に向ける熱量を見ていると、「私の建築に対する熱量は人より劣っているんだ」と感じていました。

それでも、常に個人的に全国を、時には海外も駆け回って、いろいろな建築を見に行っていました。
もちろん設計課題に割く時間を犠牲にして、です。

それが楽しかったからであり、それが私のやりたいことであったからに他なりません。

「他者と比べて向いているかどうか」とか、そんなことは一切気にしていませんでした。

教授が求める「もっと現実的かつ理論的な」建築設計を極めるよりも、すでに存在している建築の構造・形態の視覚的な面白さに没頭する方が遥かに楽しかったのです。


建築の花形といえば建築設計なので、建築学部に入る人は入学時点でそのほとんどが「設計」分野を志望していますし、
だからこそ、設計課題ができないと、「自分は建築に向いていない」と感じてしまう人が少なからずいると思います。

しかし、建築の世界で評価されるのは必ずしも設計力だけではありません。
むしろ、それ以外の力の方が評価される場合の方が多いのではないかと思います。
(少なくとも私はそう信じています)

設計は全然できないけど、
・建築の材料を研究するのが好きだ
・建築の歴史を辿るのが好きだ
・もっと広く、都市的な観点から建築を読み解くのが好きだ
etc…

これらは全て、立派な建築適正です。


建築愛を認める。


どんなに設計が向いていなくても、建築学部に入ってからの4年間一切揺らぐことがなかったのは、

仕事=趣味=建築で生きていく

という理念です。


現実的な建築を作り出すことに「趣味」と言えるだけの楽しさを見出せず、
バカみたいにただ建築を見ることが「趣味」だった私の建築愛を認めさせてくれた人がいます。

それは2025年7月。
院試を受けないと決め、ポートフォリオに書ける内容作りを目的に、手当たり次第に参加していた建築関連のボランティアのひとつでのことでした。

そこで出会ったクセの強い陶芸家のおじさんが謎に建築に詳しかったので、一緒に建築の話をしていると、
「君は本当に建築が好きなんだね」と言われたのです。

建築学部に入ってこの方、ある程度建築に精通した人間から自分の建築愛を認められたことなんて無かったので、私はお世辞だと思い、必死で弁明しました。

「そんなことないんです、私の設計課題は全部中身のない、形ばかりの3Dお絵描きなので💦」

するとクセ強陶芸おじさんは
「3Dお絵描き!?悪い表現だな〜」と笑いながら、

「建築の『見た目』が好きだ、『ガワ』が好きだ、というのが君の建築愛で良いんじゃないか」と言ってくれたのです。


結局このボランティアは途中でバックれたのですが(最低)、この言葉をもらえただけで私は参加した意味があったというか、これが全てだったと思っています。

それ以来、「私は建築の『ガワ』が好きだ」をモットーとして、それまでの「建築士」ではなく、

たくさんの建築を見て、建築の良さを伝える「建築雑誌編集」や「建築ライター・建築批評家」を将来の目標に定めました。


アアルトが好きなんて言ったら、絶対嘘ってバレる。


まず、建築の作り方に正解はありません。

もしあなたがあるように感じているとしたら、あるように感じているだけです。


その上で、建築家は大きく2つのタイプに分けられると考えます。


ひとつは理論的・現実的に建築を捉える「ゼネコンタイプ」です。

ディテールと全体の一体感を極めたがり、制約があるほど燃える最強の実務厨・「レンゾ・ピアノ」や、見た目の美しさばかりの建築を批判する「内藤廣」、北欧という環境でいかに快適な内部空間を実現するかにこだわる「アルヴァ・アアルト」などがここに該当します。


対して、自身の世界観や建築理念を形に表し、そのためにはプライバシーや、快適性の開放感以外の要素を犠牲にしてしまう、形態は面白いし綺麗だけど、自分の家は絶対作って欲しくない「アトリエタイプ」の建築家がいます。

代表格としては、万博リングで注目を集めた「藤本壮介」や、すぐガラス張りにすることでお馴染みの「SANAA」、理論的に思考する人間が逆上がりをしても作れない形態を作り出すギフテッド・「フランク・ゲーリー」がいると思います。

打ちっぱなしコンクリートという象徴的な部材で自身の建築作品の性質をブランド化することに成功している「安藤忠雄」なんかも、こっちだと思います。

ちなみに、日本でトップクラスに有名な建築家である「隈研吾」ですが、あれは見せかけだけ良い感じになったら、自身の建築理念の表現にたどり着く前に空間構成を詰めることを諦めてる印象があるので、ここには入れたくないです(主観)。


ここまで読んでくださった方々は当然気付いていると思いますが、私が好きなのは圧倒的に「アトリエタイプ」の建築です。


でも建築学生は結構、アアルトとか内藤廣が好きっていう人多いんです。
あんまりみんな藤本壮介とか言わない。

私は分かりやすく派手な建築が好きなので、藤本壮介やフランク・ゲーリーの建築が大好きだし、なんならゴシック建築のゴテゴテな装飾が大好きです。
イスラム建築のモザイクタイルなんかも本当に助かるし、ガウディの作品群があるので、いつか絶対スペインに住みます。

「分かりやすく凄いもの」が好きっていうよりも、「一見普通そうなもの」の良さを見出せている方がツウっぽくてカッコいいじゃないですか。

なので私も、「アアルト好き」とか「内藤廣好き」とか言える人に若干憧れているんです。

それでも私はまだアアルトの実験住宅をただの家の範疇だと思ってるし、
内藤廣とゼネコンの区別がつかないのでダメですね、という話でした。


おわりに


「しくじり建築学生」とは言いましたが、私はもし大学入学からやり直すとしても、また同じように建築を見て回って、設計課題は成り行きとガッツで終わらせると思います。

つまり、一切の後悔はありません。

それは、ひとつひとつの瞬間の私が“今”自分がやりたいと思うことをやってきた集合体だから。

これもちょっと話は変わるんですけど、私は大学入学前に1年間浪人していて、現役時代も含めると2年間、「未来の自分のために、今やりたいことを我慢」していたわけなんですね。

そして大学生になり、突如広くなった世界で、私は「見たい!」と思った時に見たい建築を見て、旅行しまくることができました。

もちろん、建築を見るだけでは建築の本質には辿り着けません。

自分で設計をやってみて初めて見つかることも、
建築家の設計理念や思想について勉強しないと腑に落ちないことも、沢山あります。

建築は、物理的に建物として存在することが目的のはずなのに、建築自体がその本質を持ち合わせてくれないことがあるのです。厄介ですよね。

だから、“建築に詳しい人間”を名乗りたいのなら、建築を見てるだけではダメだ。
これは間違いない。

それでも、「建築」というものを知る上で、私たちは実体から入ってもいいし、歴史から入ってもいいし、材料からでも建築思想からでも、なんでもいい。
建築が持ち合わせている全ての、どれでもいい。

ひとつの入り口から建築を覗き込んで、そこから見えてくる新しい側面を知りたいと思った時、初めて別のアプローチを試せばいい。


ひたすら建築を見まくって私が辿り着いたのは、
「文章で建築を学ぶことが1番深い」という場所です。

何もわからないまま建築をただ見るよりも、勉強になることが沢山ある。

それでも、今私が本を読んでたくさんの解釈ができるのは、建築を見続けて“建築を見る目”を鍛えてきた日々があるから。

だから全ては必要な過程で、これが私の歩むべき道であると確信している。

その証拠に、私は今目指している場所が死ぬほどしっくりきている。



俺みたいにはなるな。

だって私の人生が正解なのは私だけだから。

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