⑤22歳の論文「自我の喪失」ー 今の私が読み返す時ー (『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ)
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⑤に続きます。
生き物が、この非連続性から引き離されることは、常に最も暴力的である。人間にとって最も暴力的なものが、死なのだとバタイユは言う。このことから、自我や自意識、主体であることが消滅することは、すなわち死を垣間見ることなのだと言えないだろうか。そして、自我が消滅することが、融合、交流の一瞬のことであり、死を垣間見ることであるから、死とは交流と融合なのだ、とも言えないだろうか。
「私たちが私たち非連続の存在を維持するのに必要な粘り強さ」 (ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦 訳『エロティシズム』二見書房 P25) 「組織された存在、非連続の中で組織された存在」 (ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦 訳『エロティシズム』二見書房 P25) この粘り強さ、組織された存在のなかにも、自我、自意識、そして主体が含まれていると、私は思うのだ。
何故そのように思うのか、説明してみよう。
人間は、大人になるにつれて、欲望から自我が離れていく。欲望と自我が同一であるときには、自分にとって全ては曖昧であり、輪郭をもっていない。そして自分の内側をのぞくことも、内側に在るものを見ることもできないため、自分の持つ暴力性や憎悪、愛に気付くことは全くない。だから、それが常軌を逸する程に昂揚することがしばしばある。しかし、自我が欲望から離れていった時に、欲望を見きわめることができるようになる。
自我は必ず欲望から離れていく。離れていった後には見極められないこともある。見きわめられるようになった時から、自我はしばしば欲望を抑制し、支配し得るようになる。
「ものごころついた時」とよく言われるが、それは自我が欲望から離れていった時のことではないだろうか。そして、孤独や存在の不安を感じるようになるのは、「ものごころついた時」からなのではないだろうか。子供が孤独や存在の不安を、全く感じないということではない。自我と欲望がまだひとつのものである時には、それを自分の内側に明確に見知ることができないし、輪郭をもたずにそれを感じたとしても、消し去ろうという努力もまた、必死になされるのである。が、自我が欲望から離れてしまってからでは、そのように努力することさえもが不可能になる。外的な状況においても不可能なことがあり、自分の内側でも不可能になることがある。それが自我の支配だと言える。自我が、欲望を抑制し、支配する、ということだ。交流しようとする欲望を。
ーつづくー
~今日の曲~
Billie's Blues (I Love My Man) Billie Holiday
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