「書くこと」は塗り絵に似ている
私はほぼ毎日、何かしらを書いている。主に手帳やノートに。
放電・充電日記、インプットや気づき、娘のおもしろ発言、思い浮かんだアイディア、いつもと違うルーティンを試して良かった事など…
朝起きてジャーナリング用のノートにモヤモヤを書き殴ることもあるし、最近は手帳のページを4分割して、「アイディア」「ルーティン」「インプット」「イベント」と分けてその日の記録を書いたりもしている。
忘れたくないけど忘れるから書く
なぜ書くか?というと、忘れたくないからだ。
いや、忘れてもいいように書いている。
また見返せば思い出せるから。
でもそうやって書いていると、書くという行為によって、より記憶に定着している気がする。
手が覚えているというか、書いて文字になったその手帳の紙面が「絵(画)」として、頭の中に残っている感じ。
そして、1週間とか1ヶ月とか1年とか、まとまりで見返すと、俯瞰して見られるので抽象化して新たな視点が得られたりする。
(これは最近「ミーニングノート」としてやっている。また別記事で書きます)
日々の輪郭を縁取り彩る「書く」ということ
私は、自分や人生についてもっとより良くしていきたいし、心地よく生きたい。
そのためにどうすればいいのか?は、劇的な変化は無くて日々の積み重ねでしかわからない。
正解はなく、移り変わるものを日々キャッチして都度チューニングしていくことに近いかもしれない。
それを、書くことで少しずつ知っていっている、途中なのかなと思っている。
放っておくと流れて行ってしまうものやコト。
それらを書き留めることは、塗り絵に似ていると思う。
日々生きているだけで書き留めないと、そこにはうっすらとした線で何かしら描かれているだけだ。
意識や意思を必要としない領域で描く、薄い線とぼんやりとした形。
そこに、縁取りをし、色をつけていく。
縁取りをしない絵があってもいい。
何色でどんなふうに塗ってもいい。
そして日々色を塗ることで立ち現れてきた絵を、ある一定期間のまとまりで見ると、別の意味付けができるように見えるかもしれない。
この時期は白黒だなとか、カラフルだなとか。
その当時は縁取らなかった線を後になって描いてもいいし、色を変えてもいい。
書かなくても、生きている限り、「今日は何もしなかった~」なんて思う日ですら、塗り絵の下絵は絶対にある。
だから、毎日はそれだけで尊い。
でもそこに、自分なりの縁取りと彩りを加えていくと、たちまち日々の解像度が上がる。
私はその絵を見たくて、毎日「書く」ことを続けている。
