過ぎし日と不在票が宝物に変わるまで
いつも同じ服で持ち物も少ない。何故なら鞄ひとつで逃げたからだ。
束縛に始まり、度重なる暴力を受けても「自分は愛されている」と思い込んで、感覚が麻痺していく。
そのうち心身共に限界を迎え、口がきけなくなり、そこでようやく追い詰められた状態に気付き、目が醒める。
元恋人・松実(まつざね)の隙を突いて、明け方にマンションを抜け出した。
あの日の冷たいながらも解放感に満ち溢れた空気を私は生涯、忘れられないだろう。
奪われた自由と本当の自分を取り戻すために新たな環境でがむしゃらに働き、約1年の月日が流れようとしている。
あれを境に人生が大きく変わってしまった。
お気に入りだったヘアブラシやネイルポリッシュは勿論のこと、暖かいスリッパ、カーディガンさえ手放し、季節ごとに買う必要がある。
それを、住む場所が決まるまで家に泊めてくれた友人が、
「梨果(りか)はさ、あそこで生まれ変わったと考えればいいんだよ」
と言ったので励まされた。彼女のおかげで何とか前向きに捉えて、私は今を生きる。
ところで、帰宅時にポストを確認すると、所謂〈不在票〉が入っていた。
何かネットで注文した覚えがなく、アパートの階段を上がりつつ差出人の欄を見て、危うく落下しかける。
私の代わりに薄っぺらい紙がひらひらとペールグレーの床に落ちた。
私宛てに私が送るなど、とんでもない。
誰かの悪ふざけ、仮に松実だとしたら現住所が割れたという訳で、ゾッとして不在票を千切り、生ゴミの中に忍ばせて捨てる。

これでよし、とはいかなかった。
後日の昼過ぎ、7箱ほど荷物が届けられ、狭い玄関は段ボールで埋まる。
素早く綺麗に並べた配達員の前で、私は呆然としただけ、どうもミステリーに巻き込まれた。
とはいえ途方に暮れても仕方がない、伝票によると以前の住所から送られており、やはり松実の仕業だと確信を持つ。
品名はどれも雑貨、わざわざ7箱分〈ご丁寧に〉ありがとうございます。
彼との終わりは嫌気が差すくらいで丁度いいか。
「よい、しょっと」
試しに1箱下ろして素手でガムテープを剥がせば、痛い思いもする。
だが、開けてみるとビニールの上に表紙の水彩画(さつまいもとキノコ等、秋のコレクション)が心を和ませるようなメモ帳が貼り付けられていた。
かつて筆談用に欠かせなかったアイテムを恐る恐る、ぺらっと捲り、間違いなく自分自身の筆跡で綴られた『未来の私へ』を読む。
『夜が明ける頃にここを出るつもりでしたが、案の定、彼に見つかり、酷い目に遭ったのです。次こそは上手くいきますように。私の生活が落ち着いた辺りでこの荷物が届くでしょう』『過去の私より』日付が約1年前、忘れられない空気に肌を刺される。
ーー無事にやり遂げることができないパターンを、初めて知った。
まだ警戒が解けず、震えたボールペンの文字が後半にかけては悔しさ故に滲んで『お願い、成功を祈ってて!』との悲痛な叫びが聞こえる。
脱走に失敗すれば練った計画を吐くまで私を縛り付け、何日でも平気でバスルームに閉じ込める、松実は〈そういった〉人間。
しかし、よもや自分から自分への贈り物とは思うまい。
気を取り直してタオルやらビニールやらを退かせば、箱の中身はちまちまと集めていた舞台のポスター、パンフレット、紙チケット、オペラグラス、双眼鏡、オリジナルグッズの数々で、失われし趣味の欠片を抱き締めた。
果てしなく書籍、台本、雑誌(『円盤』は僅か)の箱がずっしりと続き、いやはや、丸ごと捨てたものだと。
力任せに開けては閉じ、指先が乾き、やがて切れる。なおもやめられず、基礎化粧品とコスメ一式に出逢い、小瓶がどっさり詰まった袋を漁り、例のネイルポリッシュも見つけた。
美容家電、ヘアケアグッズ、ジュエリーケース、アクセサリー、ハンカチ、衣類とは書かれていなかったにも拘らず、靴下、帽子。
流石に肌着はなくても少しの洋服が助かる。冬に使えるコート、ダウンジャケットを広げて、宝探しの如く胸が高鳴り、久々に会った仲間たちが賑やかにひとりの寂しさを掻き消した。
何はともあれ。どう考えても松実の監視があり、がたがた荷物を運び、ましてや送るなんて、御伽話でもあるまいし、有り得ない。
玄関からダイニングキッチンを突き抜けて洋室、部屋中、段ボールだらけの滑稽な光景をきっぱりと否定し……後々、それは不可能だと思い直す。
つまり、不思議なことに、過去の自分が命懸けで念じて、全てではなくとも現在に選りすぐりの〈大切〉が辿り着いたのであろう。
「ごめん、梨果。愛してる」
聞き飽きた松実の台詞が尚更、薄ら寒い秋の夕暮れに。
ジュエリーケースには一粒ダイヤモンドのペンダント、オーロラに輝く指輪、あとはハイブランドの華奢な腕時計。
記念日に貰った身の丈に合わぬ品物を、ありがたく売る。
