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赤い薬を飲むかどうかは、今日決めればいい――世界を正しく認識して生きるという選択について

これは、正しさの話ではない。
ましてや、勇気や覚悟を称える話でもない。

問いはもっと単純で、もっと身も蓋もない。

世界をできるだけ正しく認識して生きたいか。
それとも、
従来の価値観の中で、定年と年金を受け取り、やがて死んでいく人生を良しとするか。

先に言っておく。
後者も、それなりに完成された、きちんと成立する人生だ。
安心設計がなされ、精神的コストは低く、社会との摩擦も少ない。
多くの人にとっては、こちらの方が幸福度が高い可能性すらある。

だからこれは、
どちらが正しいか、という議論ではない。
どちらを選ぶかという話だ。


この選択を説明するのに、これ以上わかりやすい比喩はない。
マトリックスの、あの場面だ。

モーフィアスは、ネオに二つの薬を差し出す。
青い薬と、赤い薬。

青い薬は、
これまで通りの世界に戻る選択だ。
社会が用意した物語の中で、
誰かが決めた意味を生きる人生。

赤い薬は、
世界の正体を知る選択だ。
もう元には戻れない。
その代わり、
自分で選び続けなければならない人生が始まる。

ここで一つ、誤解を避けておきたい。
赤い薬と言っても、
メトロン星人がちゃぶ台の前で差し出してくるそれではない。
飲んだ瞬間に社会の真理を悟り、
突然すべてが腑に落ちて超然と生きられる、
そんな都合のいい代物ではない。

現実はもっと地味で、不快で、拍子抜けする。
体はだるく、世界は冷たく、
「え、これだけ?」と思うところから始まる。

ただ一つ確かなのは、
もう「知らなかったことにして生きる」ことはできなくなる
それだけだ。


日本という国は、長いあいだ、
この赤い薬を飲まなくても生きていける社会だった。

国があり、
会社があり、
制度があり、
そしてメディアが物語を用意してくれた。

個人は、
選ばなくてよかった。
捨てなくてよかった。
疑わなくてよかった。

目を覚まさないことは、
怠惰でも思考停止でもなく、
最も合理的で、最も低コストな生存戦略だった。

だから、
目を覚まさない人生を切り捨てる必要はない。
それは、その時代において最適化された選択だった。

問題は、
その前提が、もう崩れているという点にある。


目を覚ます上で、最初に捨てなければならない幻想がある。

「日本は本当はすごい」という言葉だ。

これは日本否定ではない。
愛国心の話でもない。
現実認識の話だ。

技術はある。
人材もいる。
勤勉さも残っている。

それでも勝てていない。
この事実を前にして、
「やり方が悪かっただけだ」
「本気を出していないだけだ」
と考えた瞬間、思考は止まる。

それは希望ではなく、
麻酔だからだ。


多くの人は、
DX、スキルアップ、効率化を
「変化」だと思っている。

だがその多くは、
高度成長期モデルの延命作業に過ぎない。

本当の問いは、ここだ。

そもそも、この土俵に立ち続ける意味はあるのか。

この問いを発した瞬間、
人は「改善」ではなく
選択の領域に入る。

そして、選択には必ず代償が伴う。


ここで、最も辛く、最も現実的な前提に触れなければならない。

国は全員を守らない。
会社も全員を守らない。
業界も全員を救わない。

これは冷酷な主張ではない。
事実の確認だ。

この前提を受け入れた瞬間、
人は初めて主体になる。
そして同時に、孤独になる。

覚醒とは、
何かを得ることではない。
守られない前提に立つことだ。


ただし、覚醒は思想としては見えにくい。
もっと生活の細部に、静かに現れる。

一番わかりやすいのは、
友達との会話だ。

世界をできるだけ正しく認識しようとする人生を選ぶと、
少なくとも一つ、はっきり変わることがある。

友達と会話したときに、
病気、年金、
テレビで言っていた政権批判の受け売り以外の話が、
自然に出てくる。

制度はなぜこうなっているのか。
他の国ではどうしているのか。
この先、どんな変化が起きそうか。
自分はどこまで関与し、どこで降りるのか。

これは知識量の差ではない。
思考の主語が「自分」に戻るかどうかの違いだ。


では、そのために何をすればいいのか。

もし前者の人生を選ぶなら、
必要なのは決意でも、勉強でも、情報収集でもない。

海外に、何もせず行ってみること。

視察でもない。
留学でもない。
成果を持ち帰る必要もない。

ただ、
予定を入れず、
生活の端に身を置く。


観光で海外に行っても、本質はほとんど見えない。

観光とは、
その国が用意した物語を消費する行為だからだ。

観光動線、
英語メニュー、
親切な接客、
「ここが名所です」という説明。

それは理解のためではなく、
満足のために編集された世界だ。

日本でテレビを見るのと、構造は同じ。

本質が見えるのは、
平日の昼間、
何も予定のない時間、
カフェやスーパーでぼんやりしている瞬間だ。

そこでは、
日本で絶対だと思っていた前提が、
世界では前提ですらないことに気づく。

これは学習ではない。
相対化だ。


ここでもう一度、はっきり言っておく。

病気の話をする人生も、
年金を気にする人生も、
テレビの物語の中で憤る人生も、
それ自体は成立している。

精神的コストは低く、
安心設計がなされ、
多くの人に向いている。

言い換えれば、
あなたが赤い薬を飲もうが、青い薬を飲もうが、私にとっては心底どうでもいい。

他人の選択を評価する必要もない。
説得する義務もない。
正解を決める権利など、誰にもない。

なぜなら、
自分の人生は一回限りで、
自分で選択するしかないからだ。


結論は、驚くほど地味だ。

世界を正しく認識しようとする人生では、
友達と会話したときに、
病気と年金とテレビの受け売り以外の話ができる。

それを、
面倒だと思うか。
面白いと思うか。

その感覚こそが、
あなたがどちらの薬を選ぶかの境界線になる。

そして最後に、もう一つだけ。

もし、
赤い薬を飲むタイミングを考えているなら、
あなたは今日が一番若い。

明日でも、来年でも、
きっと同じ理由で先延ばしできる。
だが、今日より若い日は、もう来ない。

どちらを選んでもいい。
ただ一つだけ。

それが
「自分で選んだ人生だ」と言えるかどうか。

それだけは、
最後まで他人に委ねることはできない。

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