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平和は祈るものではない

――終戦81年、日本がもう一度考えるべきこと

8月15日が来るたびに、日本では「平和」という言葉が繰り返される。

戦争は悲惨だった。二度と戦争を繰り返してはならない。亡くなった人々を悼み、平和を願おう。

もちろん、その思いに異論はない。

しかし私は近年、終戦の日に著名人やメディアから発せられる「平和」という言葉を聞きながら、どこか違和感を覚えるようになった。

私たちは、平和というものを少し勘違いしてはいないだろうか。

平和とは、ただ戦争をしないことなのか。

武器を持たないことなのか。

防衛について語らないことなのか。

強い国家を警戒し続けることなのか。

私は違うと思う。

平和とは願望ではない。

平和とは、外交、安全保障、経済、エネルギー、食料、情報、そして民主主義という様々な仕組みを不断に動かしながら、「戦争を起こさせない状態」を維持した結果なのである。

暴力と正当防衛を同じにしてはいけない

極めて単純な話をしよう。

街中で突然他人を殴る人間がいる。

それに対して、殴られた人間が自分や家族を守るために相手の腕を押さえた。

この二人を見て、

「どちらも暴力を使ったのだから同じだ」

と言う人がいるだろうか。

いないはずだ。

暴力と正当防衛は違う。

ところが国家の安全保障になると、なぜかこの単純な区別が曖昧になる。

侵略するために武力を行使することと、侵略された国家が国民と領土を守るために武力を行使することまで、「戦争」という一つの言葉で括ってしまう。

しかし、それでは誰が平和を壊したのか分からなくなる。

さらに言えば、正当防衛する能力を持つことと、実際に殴り合うことも違う。

家に鍵をかける。

警察を配置する。

国境を警備する。

攻撃されたとき反撃できる能力を持つ。

それは暴力を望んでいるからではない。

むしろ、

「手を出しても得をしない」

と相手に思わせることで、暴力そのものを起こさせないためである。

喧嘩をしない人と、殴られても抵抗できない人は同じではない。

同様に、

戦争をしない国と、侵略されても抵抗できない国も同じではない。

ここを混同したところから、日本の戦後平和論には一つの歪みが生まれたのではないか。

戦前への恐怖は理解できる

一方で、戦後日本の左派やリベラルな人々が何を恐れてきたのかは理解しておく必要がある。

彼らが恐れているのは、単純に自衛隊や防衛費ではない。

その先にある、

国家権力の強化。

異論の排除。

言論統制。

国民への同調圧力。

そして最終的に戦争へ向かう社会。

つまり、治安維持法や大政翼賛会へと至った戦前日本の再現を恐れているのだろう。

実際、日本共産党は今年8月15日の論考でも、治安維持法による弾圧と言論・結社の自由の制約を、戦争へ向かった歴史の重要な要素として位置付けている。国立国会図書館の年表でも、1940年の大政翼賛会発足から、1942年のいわゆる翼賛選挙へと進んでいった過程を確認することができる。(日本共産党)

その反省は必要である。

私は、政府に反対したという理由で人間が逮捕される国家など望まない。

新聞やテレビが政府批判をできなくなる社会も望まない。

野党が活動できない国家も望まない。

しかし、ここから先が重要なのだ。

「国家権力を暴走させてはいけない」という命題と、「国家を強くしてはいけない」という命題は同じではない。

さらに言えば、

「防衛力を持ってはいけない」という結論にはならない。

民主国家が目指すべきなのは、国家を無力化することではない。

国民を外敵から守る十分な力を持たせながら、その力を国民に向けさせないことである。

強い防衛力と、強い民主的統制。

この二つを両立させる。

それが成熟した民主国家ではないのか。

選挙で勝った政権は独裁なのか

今年、日本の政治状況は大きく変わった。

衆議院では自由民主党・無所属の会が316議席を占め、高市総理自身も2月の記者会見で、前年の薄氷の政権基盤から一転し、350票を超える首班指名を受ける安定した基盤を得たと述べている。(内閣府)

当然、これほど巨大な議会勢力を持つ政権には厳しい監視が必要である。

私はそこを否定しない。

権力は監視されなければならない。

しかし、

「圧倒的多数を持っている」ことと「独裁である」ことは全く違う。

独裁かどうかを判断するなら、議席数を見るのではなく、その政権が何をしているのかを見るべきだ。

野党を禁止したのか。

反対派を逮捕したのか。

新聞やテレビの政府批判を禁止したのか。

司法を政府の指揮下に置いたのか。

選挙制度を操作し、政権交代を不可能にしたのか。

そうした具体的事実によって判断すべきである。

自由な選挙を行い、その結果として有権者が一つの政党に大量の議席を与えたのであれば、それ自体は独裁ではない。

それは民主主義の結果である。

「ヒトラーも選挙で選ばれた」という便利な言葉

こういう話をすると、

「ヒトラーだって選挙によって登場したではないか」

という話が出てくる。

確かに、ナチスが民主制度の中で勢力を伸ばしたことは重要な歴史的教訓である。

しかし歴史は、もう少し正確に見なければならない。

1933年の選挙でもナチ党単独の得票率は43.9%で、単独過半数ではなかった。そしてその後、全権委任法によって議会の統制を外し、地方自治を奪い、政治的反対者を排除し、最終的には単一候補名簿しか提示されない体制へ変えていった。

ドイツ連邦議会自身が、その過程を詳細に記録している。(Deutscher Bundestag)

したがって、ナチスの歴史から学ぶべきことは、

「選挙で大勝する政治家は危険だ」

という話ではない。

本当に警戒すべきなのは、

選挙で得た権力を使って、次の自由な選挙を成立させる仕組みそのものを壊し始める政治家である。

ここを取り違えてはいけない。

独裁を恐れるあまり、自由な選挙によって示された民意そのものを危険視し始めたら、それもまた民主主義への不信になってしまう。

オールドメディアだけが世論を作る時代ではない

そしてもう一つ、戦前と現在には決定的な違いがある。

情報環境である。

かつては、新聞、ラジオ、そして後のテレビのような限られた媒体が、国民の情報の入口をほぼ握っていた。

情報を止められれば、国民は知ることができなかった。

しかし現在は違う。

政府が資料を公開すれば、私たちは直接読むことができる。

国会審議を見ることもできる。

日本のメディアと海外メディアを比較することもできる。

専門家の説明を探すこともできる。

SNSや動画を通じて、政治家自身の発言を編集されていない状態で確認することさえできる。

もちろん、これは良いことばかりではない。

デマも流れる。

切り抜きもある。

陰謀論もある。

自分の考えと同じ情報ばかりが表示される危険もある。

つまり私たちは、

「情報を与えてもらえない社会」から、「大量の情報の中から自分で判断しなければならない社会」へ移ったのである。

だから現代の民主主義に必要なのは、

「国家を疑え」

だけではない。

メディアも疑う。

SNSも疑う。

政治家も疑う。

専門家も疑う。

そして何より、自分自身の思い込みも疑う。

その上で一次資料を確認し、比較して、自分で判断する。

これが現代の民主主義だと思う。

権力監視と政権攻撃は違う

私は、メディアによる権力監視を否定するつもりはない。

野党の追及も必要である。

政治家に違法行為や重大な倫理問題が疑われるなら、徹底的に調査すればいい。

しかし、

権力監視と、政権を弱らせることは同じではない。

ここも分ける必要がある。

週刊誌に記事が出る。

野党が国会で取り上げる。

メディアが「疑惑」と報じる。

政府が回答する。

すると翌日、

「説明が十分ではない」

「疑惑は深まった」

として、再び同じ議論が続く。

もちろん重大な問題なら続ければいい。

だが、国会の時間は有限である。

安全保障。

エネルギー。

物価。

社会保障。

少子化。

産業競争力。

AI。

食料安全保障。

台湾海峡。

ロシア。

北朝鮮。

国民生活と国家の将来に直結する問題はいくらでもある。

野党の役割とは、政府を困らせることではない。

政府より優れた政策を提示し、「自分たちならこうする」と国民に示すことである。

メディアの役割も、政府を批判すること自体ではない。

政府の政策や行為を検証することだ。

検証した結果、政府が間違っていれば厳しく批判すればいい。

正しかったなら、正しかったと伝える。

それが報道ではないだろうか。

「戦争反対」と唱えれば平和になるわけではない

そして話は最初に戻る。

8月15日に「戦争反対」と言うことは簡単だ。

誰だって戦争などしたくない。

しかし問題は、

どうすれば戦争を起こさずに済むのか

なのである。

戦争を望まない国だけが存在する世界なら簡単だ。

しかし現実の国際社会には、自分たちの都合によって国境を変えようとする国家もある。

軍事力を背景に外交交渉を行う国家もある。

国際法を自国に都合よく解釈する国家もある。

そこで、

「私たちは戦争を望みません」

と宣言しただけで相手が攻撃をやめてくれるなら、世界に軍隊など必要ない。

だから外交が必要になる。

同盟が必要になる。

経済力が必要になる。

防衛力が必要になる。

そして、最後まで戦争にしないための抑止力が必要になる。

平和とは、無抵抗であることではない。

平和とは、相手に戦争を始めさせないことである。

戦前の反省を、戦前で止めてはいけない

私は戦前の日本を美化するつもりはない。

しかし、戦前を毎年断罪して終わることにも意味を感じない。

終戦から81年もたった。

そろそろ、

「日本は悪い戦争をしました。だから平和を願いましょう」

というところから、もう一段先へ進んでもいいのではないか。

なぜ外交的孤立を招いたのか。

なぜ途中で方向転換できなかったのか。

なぜ組織の論理が国家全体の利益を上回ったのか。

なぜ都合の悪い情報が上層部へ届かなくなったのか。

なぜ「今さら引けない」が積み重なっていったのか。

なぜ異論を許せなくなったのか。

そこから何を学び、現代の国家経営にどう反映するのか。

それこそが歴史を学ぶ意味ではないだろうか。

戦没者への本当の供養

戦争で亡くなった人々に対して、私たちができることは限られている。

花を手向けることもできる。

黙祷することもできる。

平和を祈ることもできる。

しかし私は、それだけでは足りないと思う。

二度と同じことを起こさないために、現実の世界を直視すること。

国民を守れる国家をつくること。

同時に、その国家が国民を弾圧しないよう民主主義によって統制すること。

自由な言論を守ること。

異論を認めること。

そして、与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、一人ひとりが考えること。

それが戦没者に対する、本当の意味での供養ではないだろうか。

私は8月15日に誓うべき言葉は、

「二度と戦争をしません」

だけではないと思う。

もう一つ必要だ。

「二度と戦争を起こさせない国をつくります」

という決意である。

平和は誰かから与えられるものではない。

祈っていれば続くものでもない。

そして、声高に「平和」と叫ぶ人だけが平和を愛しているわけでもない。

国を守る方法を考える人。

外交を考える人。

防衛を考える人。

経済を強くしようとする人。

権力を監視する人。

自由を守ろうとする人。

それぞれが自分の役割を果たした先に、ようやく平和は存在する。

平和とは理念ではない。

平和とは、国家と国民が不断の努力によって作り続ける「結果」なのである。

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