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料理の神様は、気まぐれに憑依する!🍳短編小説:第六話「宇宙ステーションの女性宇宙飛行士に憑依した料理の神様の話」

料理の神様は、気まぐれに憑依する!

🍳第六話 「宇宙ステーションの女性宇宙飛行士に憑依した料理の神様の話」

プロローグ

料理人の異色は、職歴の寄り道だけではない
環境そのものが異色であるほど、料理は哲学になる

重力がない場所では、香りが立ち上がらない
湯気は上へ昇らず、丸い膜になって漂う
パンはふくらみにくく、粉は散り、油は粒になって飛ぶ
「当たり前」が当たり前じゃない場所で、人はようやく気づく
料理は火でも技でもなく、誰かを思う設計なのだと

料理の神様は、こういう場所が好きだ
失敗が派手で、成功が静かで、祈りが露骨になるから

そして今日、神様は宇宙へ行く
星の海の真ん中で
ただ一人の誰かのために、焼き菓子を作らせるために

🍳料理の神様が憑依したのは

軌道上の宇宙ステーション
地球は窓の外で、青い呼吸をしている
夜と昼が高速で入れ替わり、薄い金色の稜線が何度も現れては消える

アヤ・ミズノはその中にいた
三十六歳
宇宙飛行士
職務はミッションスペシャリスト、科学実験と船内保全の担当
冷静で、記録が正確で、無駄な言葉が少ない
けれど、ただ一点だけ、彼女は地上に“引っかかっている”ものがあった

地球に恋人がいる
名は蓮(レン)
管制の関連部署で働くエンジニア
彼はいつも、言葉より先に手を差し出すような人だった
彼女が出発する前夜、彼は小さな紙袋を渡した
中身は、町の焼き菓子屋のサブレだった

「向こうで甘いの食べたくなる日があるから」
そう言って笑った

アヤはその紙袋を、いまも船内の個人収納に入れてある
開けていない
香りが逃げるのが惜しいのと
地球の匂いが減るのが怖いからだ

帰還は一週間後
再突入の準備が始まり、スケジュールは分刻みになっていた
忙しいはずなのに、夜(と呼べる時間)の静けさの中で
アヤはふと思ってしまう

帰ったら、何を渡せるだろう
言葉は、交信ログに似すぎる
抱擁は、重力の再学習みたいにぎこちないかもしれない
だったら、味で渡したい
こちら側でしか作れないものを

けれど宇宙ステーションにお菓子作りの厨房はない
オーブンはない
粉は舞う
バターは飛ぶ
クッキーの欠片は危険物になる
無重力は、甘ささえも手強い

それでも彼女は、作りたかった
恋人のための焼き菓子
一週間後に帰る地球へ持ち帰る、たったひとつの“食べられる手紙”

その夜
アヤは小さく呟いた

「料理の神様
いるなら、今夜だけ来て
無理なのは分かってる
でも可能にして」

すると、空調の音が一瞬だけ変わった
いつも一定のホワイトノイズが、ほんの少し笑ったように揺れた

そして声がした
軽くて、尊大で、腹立たしいのに安心する声

宇宙で焼き菓子?
いいね
不可能を、手のひらサイズにする遊びは大好きだ

料理の神様が憑依した

「料理開始」

🍳Commence cooking(コメンス・クッキング)

「まず言っておく」と神様
「おまえが想像しているクッキー作りは捨てろ
粉をボウルで混ぜて、型抜いて、オーブンで焼く
その儀式は重力の儀式だ
ここには重力がない」

アヤは作業用の固定ベルトを腰に巻き、調理エリアに身体を留めた
「じゃあ、どうやるの」

神様は平然と言った
焼き菓子を焼くのではない
焼き菓子として成立させる

熱源はある
フードウォーマー
再加熱パック
そして、実験用の温度制御ユニット
使い方次第で、焼ける」

「危険じゃない?」

「危険を管理できるのが宇宙飛行士だろう」
神様は笑った
「材料は何がある」

アヤは在庫リストを頭でめくる
・トルティーヤ(パン代わり)
・ナッツ類(アーモンド、くるみ)
・ドライフルーツ(レーズン、クランベリー)
・ピーナッツバター
・はちみつ
・シナモン
・ココア
・粉ミルク
・少量のバター(貴重品)
・コーヒー
・塩

「ふむ」神様
「なら作るのはスペース・フロランタン
正確には、フロランタン風
ベースは薄いトルティーヤを焼き締めて
上にハニー&ナッツをキャラメリゼ
仕上げにココアの薄い膜で割れ防止
持ち帰りに強い
香りが立つ
噛めば、地球が戻る」

アヤは思わず眉を上げた
「天才みたいなこと言う」

「神だからな」

神様は、粉が舞わない工程を選び、手順を宇宙向けに変形していく
それは料理というより、ミッション手順書のように精密だった

Step 1:ベースを作る
トルティーヤを円形のまま、薄くバターを塗る
塗りすぎない
脂は飛ぶ
薄い膜で十分
そこへ粉ミルクを粉のまま使わず、少量の水でペーストにして、極薄に伸ばす
乾くとビスケット感が出る

「粉は敵だ」神様
「粉は宇宙では事故だ
だから粉を粉のまま扱うな」

アヤは頷いた
彼女は粉の厄介さをよく知っている
小さな粒が空調に吸われ、フィルターを詰まらせる
それはここでは“異物”だ

Step 2:ナッツ層を作る
ナッツとドライフルーツを小袋の中で砕く
粉にはしない
粒を残す
そこへはちみつ+ピーナッツバターを少量
シナモンをほんのひとつまみ
塩を一粒だけ潰して入れる

「塩は?」とアヤ
神様は即答する
「恋人の記憶だ
甘さだけでは記憶は輪郭を失う
塩は輪郭
たった一粒でいい」

袋の中で揉むと、ナッツがまとまり、香りが立つ
シナモンが“家”の匂いを連れてきて、アヤの喉が少しだけ熱くなる

「レン、シナモン好きだった」

「なら正解だ」神様
「好きなものは、迷子を連れ戻す」

Step 3:焼くのではなく固める
温度制御ユニットを低温域で運用
焦げの発生を避ける
ベースを固定し、表面を乾かす
その上にナッツ層を薄く広げ、再び熱を当てる
はちみつが粘りを増し、ナッツが一体になる
香りが、上へ上へではなく、周囲に静かに広がる
まるで透明な膜が、空間に味を張っていくみたいに

アヤは気づく
地球の台所の香りは、上に昇ることで出来上がりを告げる
でも宇宙では香りが昇らない
だから出来上がりは、見た目と触感でしか分からない
それが妙に孤独だった

「孤独?」と神様
「いい
別れの料理には孤独が必要だ
孤独が香りを濃くする」

Step 4:仕上げの膜
ココアを少量のはちみつと水でペーストにして、薄膜を作る
それをナッツ層の上に点々と置いて伸ばす
完全に覆わない
星図みたいにまだらでいい

「なぜ全部塗らない」
「全部は覆うな
恋人の人生も覆うな
いいか、贈り物は守るが、閉じ込めない」

アヤは無言で頷いた

最後に、ほんの小さな乾燥オレンジピール(非常食パックの隅にあった)を砕いて散らす
香りが、ふっと明るくなる
窓の外の地球の青が、少し近づいた気がした

完成した焼き菓子は薄く、硬く、割れにくい
噛めばナッツがほどけ、はちみつがゆっくり甘さを押し出し
シナモンとオレンジが帰る方向を示す
そして最後に、ココアが静かに影を落とす
甘いのに、浮つかない味

アヤは試食用の小片をほんの少しだけ噛んだ
歯の奥でカリ、と音がした
その音は、宇宙では不思議なほど地球の音だった

「    できた」
声が少し震えた

神様は満足そうに言った
「できたな
これを持ち帰れ
恋人に渡す時、言葉はいらん
香りが説明する」

アヤは焼き菓子を、二重包装にして固定する
湿気と衝撃を避ける
破片が出ないよう、角を丸めておく
すべてが安全手順になっているのに
気持ちだけが、ひどく個人的だった

そして彼女は、小さなメモを添えた
油性ペンで、短く

「帰還まであと7日
 これは地球を噛む練習
 最初のひと口は、一緒に」

そのとき通信端末が鳴った
地上との定期連絡
画面にレンの名前が出る
彼は地上のオフィスの蛍光灯の下にいて、相変わらず少し眠そうに笑った

『調子どう?』
『問題なし』
いつもの交信
いつもの定型句

けれどアヤは、言ってしまいそうになる
作った
あなたのために
宇宙で

その言葉を飲み込んだ瞬間
神様が耳元で囁いた

言うな
驚きは、手渡しの瞬間に残せ

アヤは、ただ笑った
『そっちは?』
『こっちも問題なし。帰ってくるの待ってる』

その待ってるの一言が
彼女の胸の中で、熱源みたいに灯った

「料理終了」

🍳Finish cooking(フィニッシュ・クッキング)

🍳エピローグ

帰還の日は来る
必ず来る
宇宙飛行士にとって、それは予定表の一行であり、同時に祈りだ

一週間後
アヤは地球へ降りた
重力は重く、音は多く、匂いは乱暴なくらい濃かった
空気が肺を押し、涙が勝手に落ちそうになる
地球は“当たり前”が多すぎて、少し眩しい

レンは待っていた
彼は何も派手なことをしなかった
ただ、彼女の荷物を受け取り
彼女の顔を見て
「おかえり」と言った

アヤは小さな包みを取り出した
二重に守られた薄い焼き菓子
宇宙で固めた、地球への手紙

「     これ」
それだけ言って差し出す

レンは不思議そうに受け取り、包みを開ける
香りが立つ
シナモン
はちみつ
ナッツ
オレンジ
そして、ほんの少しのココア

彼は目を丸くした
「これ、まさか    」

「宇宙で」
アヤは言う
「あなたのために作った」

レンは言葉を失って笑い
そして一口かじった

カリ、と音がした
その音は、地球の音だった
だが同時に、あの宇宙の静けさの中で作られた音でもあった

「   すごい」
レンは小さく言った
「甘いのに、落ち着く
なんか    帰ってきたって感じがする」

アヤは頷いた
「それ、私のほうが言いたい」

その瞬間
料理の神様は、どこかで気まぐれに笑った
たぶん宇宙ではなく
台所の湯気の向こうでもなく
誰かが誰かのために火を使ったという事実の中で

料理の神様は、気まぐれに憑依する
けれど一度、誰かのために作った手は
もう二度と、ただ仕事の手ではいられない

それが、神様のいちばん好きな結末だ


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