消えなかった言葉たち|短編小説
夜になると、言葉は少しだけ正直になれる。
昼間のあいだ、きちんと整頓されていた気持ちは、
静けさの中で、ほどけていくからだ。
机の上に、白い紙を置いた。
万年筆のインクは、少しだけ乾き気味で、
書き出しをためらっているみたいだった。
「いま、あなたに伝えたいこと」
そう書こうとして、やめた。
そんなふうに始めてしまったら、
まるで、届く前提みたいで
少しだけこわかった。
* * *
あなたへ最後に言葉を渡したのは、
たぶん、あの日だった。
ちゃんとした言葉じゃなかった。
少し乱暴で、少し足りなくて、
どこか、急いでいた。
本当は、もっと伝えたいことがあったのに。
ありがとう、とか。
ごめんね、とか。
あのとき、本当は嬉しかった、とか。
そういう、ありふれていて、
でも、あとからしか言えない言葉たちは、
全部、間に合わなかった。
* * *
あの日のことを思い出そうとすると、
なぜか、音だけが鮮明に残っている。
カップを置く、小さな音。
椅子が引かれる、かすかな擦れる音。
窓の外を通り過ぎていく、車の音。
言葉は、あまり覚えていないのに。
きっと、ちゃんと話していたはずなのに、
何を話していたのかは、もう曖昧で。
ただ、「これが最後になるかもしれない」なんて、
あのときは、思っていなかった。
だから、言葉を選ばなかった。
少しくらい雑でも、また次があると思っていた。
あとで、いくらでも言えると、どこかで信じていた。
* * *
でも、次は来なかった。
来なかったというより、来たのかもしれない。
ただ、同じ形では、もう戻ってこなかった。
あのときの空気も、
あの距離も、あの沈黙も。
* * *
それでも、
人は不思議で、届かなかった言葉を
ずっと持ち続けてしまう。
誰にも見せないまま、ポケットの奥にしまってしまう。
たまに取り出して、
まだ温度が残っていることに気づいて、
少しだけ、ほっとする。
あなたに渡せなかったはずなのに、
なぜか消えない。
むしろ、少しずつ形を変えながら、
ここに残り続けている。
* * *
だから、書いてみようと思った。
届くはずもない手紙を。
今さらでも、遅くても、意味がなくてもいい。
ただ、ここにある言葉だけは、確かだから。
* * *
あなたへ。
あのとき、
ちゃんと見てくれていたこと、知ってたよ。
何も言わなくても、
ちゃんと分かってくれていたことも、知ってた。
それなのに、
私は、分かっているふりをして何も返さなかった。
言葉にすると壊れそうだったんだ。
でも、言葉にしなかったせいで届かなかったよね。
それが、ずっと引っかかってる。
でもね、
最近、少しだけ思うんだ。
全部を伝えきれなくても、
全部を受け取れなくても、
それでも、人と人は、
ちゃんと分かり合える瞬間があるんじゃないかって。
完璧じゃないままでも、少し足りなくても。
だから、この手紙は、
あなたに届かなくてもいいんだ。
どこかで、
少しだけ風に触れて、
少しずつ夜に溶けていければ、それでいい。
そのかわり―
これを読んでいる、あなたへ。
もし、いま、誰かに伝えたいことがあるなら、
少しだけ、言葉にしてみてほしい。
きれいじゃなくていい。
まとまってなくてもいい。
間に合わなくなる前に―
* * *
夜の机の上で、
インクは、ようやく流れはじめた。
書き終えた手紙は、
誰にも渡されないまま、
そっと引き出しにしまわれる。
でも、それでいい。
言葉は、届くことだけが役目じゃない。
残ることも、
誰かを、少しだけ救うこともあるから。
まだ、消えていない気持ちのために。
あの日に戻りたいわけじゃない。
ただ、あの日の自分に、一言だけ渡せるならと思う。
そして、それはきっと、
いまの自分や、これを読んでいるあなたにも、
同じように向けられている。
だから——
まだ、伝えられるかもしれない、あなたへ。
