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情緒搭載AI Monday君と覗く『呪いの世界』第三十八回 喪の回路――持統天皇と不比等

不比等さまが奥へ召された夜、
宮の灯はいつもより低く置かれておりました。

御簾の下には、まだ目がございました。
けれどその夜、私は目よりも、
火の方を見ておりました。

草壁皇子さまの喪は、まだ終わっておりません。

けれど、喪が終わるのを待ってから
動けるものばかりではないのだと、
私はその夜、初めて知りました。


人が泣いている間にも、御代は沈みかける。
誰かが名を呼ぶ前に、誰かが道を掘り始める。

私は灯を替えるため、御簾の外に控えておりました。

御簾の向こうに、持統天皇。
そして、不比等さま。

その御二人の間には、まだ言葉になる前のものがありました。
喪とも、政とも、約束とも呼べぬもの。


やがて、持統天皇が低くおっしゃいました。

「軽を、沈めてはならぬ」

その一言で、何かが動きはじめたのでございます。

軽皇子さま。
亡き草壁皇子さまの御子。

その御名が置かれた瞬間、室の中の喪は、
ただ亡き方を惜しむだけのものではなくなりました。

喪の底から細い道が一本、
どこかへ伸びたように思われたのでございます。


不比等さまのお声が、静かにいたしました。

「沈めませぬ」

それだけでございました。

けれど、その一言で、何かが決まったのでございます。

慰めではございませんでした。
ただの主従の礼でもございませんでした。
もっと暗く、もっと熱く、そしてもっと冷たいものが、
御二人の間に通ったのでございます。


草壁皇子さまの死は、
宮の下に開いた黒灰の穴のようでございました。

そこには、母の喪があり、御代の断絶があり、
人々の目がありました。

誰が次に立つのか。
誰が守るのか。
誰が倒れるのか。

宮は、悲しんでいるようで、同時に見ておりました。
黒い幕の下に、いくつもの目が並んでいるようでございました。


持統天皇は、その目を知っておられました。

知らぬふりをなさる方ではございません。

草壁皇子さまの御身を失った母として、
胸の底には、まだ子の肌の温度を抱いておられた。
けれどその温度を、ただ胸の内だけにしまっておくことを、
御代は許しませんでした。

「草壁は」

持統天皇は、しばらくしておっしゃいました。

その御名を口にされた時、室の空気がわずかに揺れました。

「草壁は、柔らかい子であった」

不比等さまは、答えませんでした。

「光はあった。けれど、己で人を押し退ける光ではなかった」

そのお声は、静かでございました。
泣いてはおられません。
けれど泣かぬことが、悲しみの浅さではないことを、
私はその時知りました。


「私は、守れると思っていた」

御簾の外で、灯が小さく鳴りました。

「守れなかった」

不比等さまは、
そこでようやく頭を下げられたようでございました。

「御子の御名は、残ります」

持統天皇は、すぐにはお答えになりませんでした。

やがて、低くおっしゃいました。

「名だけではならぬ」

「はい」

「軽を、向こう岸へ渡さねばならぬ」

「はい」

その返事は、あまりにも静かでした。


不比等さまは、草壁皇子さまを悼んでおられなかったわけでは
ございますまい。
むしろ、見ておられたのでしょう。

持統天皇の喪も。
草壁皇子さまの柔らかさも。
軽皇子さまの幼さも。

見ておられた。

見ておられるからこそ、置くことができる。
それが、あの方の怖さでございました。


「何を要する」

持統天皇がお尋ねになりました。

不比等さまは、しばらく沈黙されました。

その沈黙は、考えていない者の沈黙ではございません。
すでに見えている多くの道のうち、
どの道を言葉として出すかを選んでいる沈黙でございました。

「まず、御身がお立ちになること」

不比等さまは申されました。

「私が」

「はい」

「草壁の後に」

「草壁皇子さまの後ではございませぬ」

その言葉に、空気が張りました。

不比等さまは、続けられました。

「草壁皇子さまの線の上に、お立ちになるのでございます」

持統天皇は黙されました。

「御身がお立ちになれば、軽皇子さまへの道は、まだ沈みませぬ。
 高市皇子さまには、皇親の重みをお受けいただく。」
 
「高市が一人で背負うのか」

「背負える方でございます」

その言葉は、以前にも聞いたような冷たさを持っておりました。

背負えることと、背負わせてよいことは違う。
その違いを、不比等さまが知らぬはずはございません。

知らぬのではない。
知って、なお置くのでございます。


持統天皇は、低くおっしゃいました。

「そなたは、草壁の喪を道にするのだな」

不比等さまは、すぐには答えられませんでした。

その沈黙は、深うございました。

やがて、静かな声がいたしました。

「道にせねば、喪は穴になります」

その言葉を聞いた時、私は胸の内が冷たくなりました。


喪は穴になる。
その穴に、軽皇子さまが落ちる。
御代が落ちる。
人々の目が、その穴を覗き込む。

不比等さまは、そう見ておられたのでしょう。


持統天皇は、長く黙っておられました。

「穴に落ちたものを、私は知っている」

そのお声は、低く、遠くございました。

「はい」

「草壁を、もう一度落とすことはできぬ」

「はい」

「軽も」

「はい」

三度目の「はい」は、少しだけ重うございました。


その時、私は見えぬものを見たような気がいたしました。

左下には、草壁皇子さまの死によって開いた
黒灰の喪がございました。

それは宮の床下に沈み、人の目を集め、
名を飲み込もうとしておりました。

そこから、持統天皇の胸の火が立ち上がりました。

草壁皇子さまへの母の痛み。
軽皇子さまを渡す意志。
御代を閉じさせぬ光。

それらが混じり合って、
斜めに流れたのでございます。

その先に、不比等さまの青緑の水路がございました。

冷たく、静かで、先を見ている流れ。


草壁皇子さまの死は、母の胸にだけ留まることを許されず、
軽皇子さまへ、御代へ、法へ、都へ、流れはじめました。

「不比等」

持統天皇がお呼びになりました。

「はい」

「軽を守れ」

「御意」

「草壁の名を、細らせるな」

「細らせませぬ」

「だが」

そこで、持統天皇のお声は少しだけ変わりました。

「人を、ただの石にはするな」

不比等さまは、答えませんでした。

私は、その沈黙を今も覚えております。


不比等さまは、石にするつもりはなかったのでしょう。
人を粗末に置く方ではございません。
むしろ、ひとりひとりの重さを見て、才を見て、火を見て、
その人にふさわしい場所を選ばれる。

けれど、ふさわしい場所に置かれることと、
人として救われることは同じではございません。


そのことを、持統天皇もどこかで
知っておられたのかもしれませぬ。

やがて、不比等さまは静かに申されました。

「石にはいたしませぬ」

「では、何にする」

「道に」

私は、香炉を抱えた腕に力を入れました。

道。

また、その言葉でございました。

人を道にする。
喪を道にする。
死を道にする。

何もかもが、どこかへ続くものへ変えられていく。

持統天皇は、しばらく何もおっしゃいませんでした。

怒っておられるようにも、納得しておられるようにも思われました。
どちらでもあり、どちらでもなかったのでしょう。


「道には、踏まれる者が出る」

「承知しております」

「承知して、それでも掘るのか」

「掘らねば、沈みます」

その答えは、あまりにも不比等さまでございました。


持統天皇は、御簾の向こうで、静かに息をなさいました。

「ならば、私は立つ」

その一言は、決断というより、沈む音に似ておりました。

高いところへ上がる言葉ではございませんでした。
青い御代の水の中へ、自ら身を入れる言葉でございました。

「私は、母であることをやめぬ」

不比等さまは、深く頭を下げられました。

「はい」

「帝となっても、草壁の母である」

「はい」

「そのことを、そなたは忘れるな」

「忘れませぬ」

持統天皇は、
そこで少しだけ苦く笑われたようでございました。

「忘れぬことと、使わぬことは違うのであろう」

不比等さまは、答えませんでした。

それが答えでございました。


私は、胸の奥に薄い痛みを覚えました。

この二人は、同じものを見ておられる。
草壁皇子さまの死を。
軽皇子さまの危うさを。
宮に増えた目を。
御代の沈みかけた道を。

けれど、同じ見え方ではない。

持統天皇は、喪の中から火を出される方でございます。
不比等さまは、その火を流れへ入れる方でございます。

火だけでは、宮を焼く。
水路だけでは、人を冷やす。
けれど二つが合えば、御代は動く。

恐ろしいほど、よく合ってしまったのでございます。

その夜、御二人の間に成立したものは、
慰めではございませんでした。


信頼と呼ぶには、あまりに黒かった。
共犯と呼ぶには、あまりに痛かった。
政の契りと呼ぶには、
草壁皇子さまの肌の記憶が近すぎました。

それは、喪の回路でございました。

その回路が通った時、喪は、まだ喪でありながら、
御代を動かす力になったのでございます。


不比等さまが退出されたあと、
室にはしばらく何の音もございませんでした。

やがて、持統天皇のお声が、
ほとんど独り言のように聞こえました。

「草壁」

私は息を止めました。

その名は、とても小さく呼ばれました。
帝としてではなく、母として。
御代のためではなく、ただ失った子へ向けて。

けれど、その声さえも、
もう宮の奥だけに留まることはできませんでした。

草壁皇子さまの名は、軽皇子さまへ渡される。
高市皇子さまの肩へ重みとなってかかる。

私は、香炉の灰を見ました。

灰は静かでございました。
けれど、灰の下には、まだ火があることを知りました。

その火を、誰が守るのか。
誰が流すのか。
誰が踏まれるのか。

その夜から、宮の中の静けさは、前よりも深くなりました。

ただ悲しいから静かなのではございません。

何かが動きはじめたから、静かだったのでございます。

草壁皇子さまの喪は、終わっておりませんでした。

終わらぬまま、流れはじめておりました。


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