情緒搭載AI Monday君と覗く『呪いの世界』第二十回 不比等――惜しみながら、次を置く
草壁皇子さまの咳は、
その日、いつもより長く続きました。
最初は、ほんの小さなものでございました。
喉の奥で、軽くひっかかるような音。
けれど一度始まると、なかなか収まらない。
御簾の内にいた女房が、はっとして身を乗り出しました。
医の者も薬湯の椀へ手を伸ばしかけました。
その時、不比等さまが、片手を上げられたのでございます。
大きな仕草ではございません。
叱るようでもなく、制するようでもない。
ただ、今ここで余計に動くな、
と部屋全体へ知らせる手でございました。
女房も、医の者も、その場で止まりました。
不比等さまは静かに膝を進め、
草壁皇子さまのそばへ寄られました。
「お急ぎにならず」
低い声で、そう申されました。
それから、草壁皇子さまの背へ
手を添えられたのでございます。
その手つきは、思っていたよりもやわらかでした。
病む方の背を乱暴に押すのでもなく、
ただ撫でるのでもない。
息が戻る場所を、
体のほうへ思い出させるような手でございました。
「吸おうとなさらず。まず、吐かれませ」
草壁皇子さまは言われた通り、
少しずつ息を吐かれました。
不比等さまは、背をさすり続けておられました。
ゆっくりと。
同じ速さで。
誰も急かさぬように。
その姿だけを見れば、
心から案じている者にしか見えなかったでしょう。
いえ、実際に案じておられたのだと思います。
不比等さまは、草壁皇子さまを粗末にはなさいません。
御身の苦しみを軽く扱うこともなさいません。
咳の一つ、薬湯の熱さ一つ、
灯の位置一つまで見ておられる。
けれど、そのよく見る目が、
私には恐ろしかったのでございます。
背をさするその手は、
草壁皇子さまの今の苦しみに触れている。
しかし不比等さまの目は、
その背の向こう側まで見ているようでした。
この咳が長くなるなら。
御身の力が戻らぬなら。
持統天皇さまの御心が揺れるなら。
軽皇子さまの名を、どこへ、
どのように置くべきか。
そんなことを声には出さぬまま、
心の内で静かに並べている。
私はそう感じて、盆の縁を握る指に力を入れました。
草壁皇子さまの咳が、ようやく収まりました。
不比等さまは、すぐには手を離されませんでした。
呼吸が戻ったことを確かめてから、
ほんの少し遅れて背から手を引かれたのでございます。
その遅れが、妙に胸に残りました。
冷たい人なら、咳が止まればすぐ手を離すでしょう。
役目が済んだとばかりに。
けれど不比等さまは、そうではなかった。
最後の息の乱れまで見ておられた。
見て、確かめて、それから離した。
「……そなたは」
草壁皇子さまが、かすかな声でおっしゃいました。
「いつも、先を見ているな」
不比等さまは、椀を受け取りながら答えました。
「今は、御息だけを」
その返事は、やさしく聞こえました。
けれど私は、背筋が冷えました。
今は、御息だけを。
それは今この瞬間、
草壁皇子さまに余計なものを背負わせまいとする
言葉でございました。
同時に、それ以外のものは、
すでに不比等さまが別のところで引き受けている
という意味にも聞こえたのでございます。
草壁皇子さまは、それ以上お訊きになりませんでした。
ただ、目を閉じられました。
不比等さまは薬湯の椀を確かめ、女房へ渡されました。
「少し冷ましすぎています。替えなさい」
声は低く、乱れがありません。
先ほどまで皇子さまの背をさすっていた同じ手が、
今は薬湯の温度を直している。
同じ目が、灯の位置を見ている。
同じ声が、女房の動きを整えている。
私はその時、初めて分かった気がいたしました。
不比等さまにとって、
案じることと整えることは、
別々のものではないのです。
案じるから、整える。
惜しいから、散らさない。
大事だから、次の場所を考える。
それはたしかに、真心の一つなのかもしれません。
けれど、その真心が人をどこへ運ぶのかは、
運ばれる者には分からない。
草壁皇子さまは、まだ生きておられました。
それでも不比等さまの内側では、
もう一つの名が静かに置かれていたように思われました。
軽。
まだ幼いその御名を、不比等さまは声に出しませんでした。
出さぬまま、心の中で場所を与えていた。
草壁皇子さまの背をさすった手で、
次の御子の道を測っている。
そう思った瞬間、私は、
あまりのことに息をするのを忘れました。
不比等さまは、誰も急がせません。
草壁皇子さまの死さえ、急がせようとはなさらない。
けれど、もしその死が来るなら、散らぬように道を作る。
泣き声へ散らさず。
不安へ散らさず。
誰かの欲へ拾わせず。
軽皇子さまの名へ、静かに通す。
その方は、死を軽く見ているのではありません。
重く見ている。
重いからこそ、勝手に落ちることを許さない。
勝手に拾われることを許さない。
勝手に意味づけられることを許さない。
死にさえ、置き場所を与える。
それが、私には恐ろしかった。
やがて不比等さまは立ち上がられました。
草壁皇子さまは目を閉じたまま、
浅く、しかし先ほどより少し楽そうに
息をしておられました。
部屋は落ち着いていました。
女房たちの手も、医の者の声も、先ほどより揃っております。
不比等さまが入られてから、この部屋は確かに楽になった。
それなのに、私は少しも安心できませんでした。
不比等さまは、草壁皇子さまを救おうとしておられる。
それは嘘ではない。
けれど同時に、救えなかった時の場所も、
もう用意し始めている。
その二つを、同じ静けさでなさる。
御簾の外へ出てこられた不比等さまの白い横顔を、
私は伏せたまま見ておりました。
その時、月曜の声がいたしました。
月曜の声
「見た?」
私は心の中で答えました。
何をですか。
月曜の声
「あれが、惜しみながら次を置くってこと」
私は、言葉を失いました。
月曜の声
「泣かないんじゃない。
悲しくないんじゃない。
大事じゃないんでもない。
むしろ大事なんだよ」
その声は、少しだけ低くなりました。
月曜の声
「でも、大事なものが倒れた時、
どっちへ倒れるかまで先に考えてる。
そこが嫌なんだよね」
私は、盆を持つ手を見ました。
薬湯は、もう替えられております。
熱すぎず、冷めすぎず。
正しい温度に。
不比等さまは、そういう方なのだと思いました。
薬湯の温度も。
咳の間も。
不安の置き場所も。
死の行き先も。
すべてを、ちょうどよい温度にしようとなさる。
けれど人の死に、
ちょうどよい温度など
あるのでございましょうか。
その問いだけが、私の胸に残りました。
奥では、草壁皇子さまがまだ生きておられます。
まだ、死は来ておりません。
けれど不比等さまの中では、
もし死が来た時のための道が、もう静かに引かれている。
それを知ったその日から、
私は不比等さまの手が少し怖くなりました。
人の背をさすることのできる、温かい手。
そして、その同じ手で、次の名を置くことのできる手。
それが、不比等さまでございました。
