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小説 「逢いに来ました、真野先生」(全17回) スケッチブック〈3〉


「逢いに来ました、真野先生」(4)



スケッチブック〈3〉



  *

「ぼくが、お世話になった真野先生のサインを見間違えるものですか」
 そう言う美島くんから、紛れもない私自身のスケッチブックを青ざめた手で受け取った。
 そして助けを求めるように、なぜ橋場という絵描きのアトリエにこれがあったのかを詳しく訊きたかった。
「珈琲をもう一杯どうだい」
 できるだけ動揺を隠したつもりだ。
 美島くんは「いただきます」と言って、話を続けた。

  *

 橋場先生が美大受験の予備校で講師をしていた頃、受験までの半年間通っていた女子高生がいたそうです。
 学校の帰りに寄るので、いつも制服姿……サイズオーバー気味のアイボリーのベストと脚丸出しのマイクロ丈のグレーのスカート姿だったようです。
 けれど、猫も杓子も茶髪に染めていた時代、彼女の艶めく黒髪は大変に美しく人目を惹いていたそうです。
 噂ですが、前にいた高校で何かの問題に巻き込まれて他の高校に編入したとのこと。心を失くしたようになっていた彼女を、気付薬にでもなればと母親が予備校に通わせたのだとか……元々美大志望だったからと……荒療治ですね。僕からしたら少し羨ましいですが。
 最初のうち、彼女は他の生徒と打ち解けることなく、黙々とデッサンをしていたようですが、作品を並べてのディスカッションの中で、自分の作品が高く評価されていくに従って徐々に正気を取り戻し、現役で志望の美大に合格したということでした……いよいよ羨ましいことです。
 そんな彼女が毎日肌身離さず持ち歩いていたのが、この真野先生のスケッチブックだったのです。
 そしてどういうつもりか大学進学と同時に、それを橋場先生に預けてそれきり……二十余年の歳月が流れたという話でした。

 ぼくはたまらなく不安になりました。
 二十余年て……さっきの女子高生、生身だったよね? 幽霊じゃなかったよね? どう見ても高校生だったよね? 混乱して橋場先生の顔を穴の空くほど見つめてしまいました。
 けれど先生は笑みを浮かべて、
「知り合いなら返してやって欲しい」
 と、言っただけなのです。ぼくはハッとして訊ねました。
「あのの名、そう名前は?」
「確か……まれ・・だったか」
 ぼくがあの娘・・・と言うのも、よく考えると変なのですが、この際許して下さい。苗字は思い出せないということでした。

 それからぼくは、真野先生のスケッチブックを開いてみました。
 そこにはさっきの女子高生と思われる姿が写しとられていて、その正確で柔らかいタッチは観る者を安心させると同時に、表情の見えない顔は不安を感じさせました。
 すみません、生意気なこと言って。
 その日からぼくは、半分夢を見ているような日々を過ごしているんです。
 と言うのは……その、まれさんがよく現れるんです。でも、まれさんではないのかもしれません。

 たとえばコンビニで商品整理をしていると、肩に指が這うような感触があり、振り向くとまれさんなんです。
 心臓に一欠片ひとかけらの氷を落とされたみたいにぎょっとしたものの、身体は透けていないかとか脚はあるかとか馬鹿なことを思い巡らせ、失礼なほど彼女を凝視していると、「すみません」と、客に声をかけられました。
 一瞬目を離した隙に、まれさんの姿はありませんでした。
 また、深夜バイトを終えて小雨の中、自転車のロックを外していると、
「先生に戻して」
 と、言う声が背後から聴こえて、振り向くとまれさんが立っています。
「あたしを描くんでしょ」とも言いました。
 深夜です。小雨の中です。怖かったです。
 図書館では、隣に座ってきたのは確かにまれさんなのに、知らん顔で紺のスクールバッグを机の上に置いたままじっとしています。
 落ち着かなくなったぼくが帰り支度をして席を立った時、彼女は机に視線を落としたまま、
「先生に戻して」と、言うのです。
「あたしを描くんでしょ」とも。
 また、同僚と二人でコンビニのレジに入っていた時、カウンター越しに突然まれさんが現れ、
「早く戻して。あたしを描きたくないの?」
 と、顔を近づけました。
「わっ!」と飛び退いたものだから、同僚が目を丸くして、
「美島君、どうしたの?」
 と、ぼくに驚いていました。
 同僚にはまれさんが見えていなかったのです。
 やっぱり生身じゃないんだ! 
 ようやく事態を認め、自分の使命を理解しました。
 彼女の願いを実行する、このスケッチブックを真野先生に戻すことです。

 確かにまれさんは、実際橋場先生のアトリエに現れて、デッサンのモデルをしてくれます。なのに、彼女の顔を思い出すことが出来ません。
 そう言えば、彼女と目が合ったことは一度もないことに、今気付きました。
 思えば、抗えない何かにただただ彼女の姿をデッサンさせられていたような気がします。





「逢いに来ました、真野先生」 キャンバスの群青〈1〉に続く



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