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旅の記:2025年晩春のツアー㊶萩城下町・其の四<前原一誠墓・野山獄跡・長井雅楽墓>(山口県萩市)

【旅の記:2025年晩春のツアー㊶萩城下町・其の四】

萩で一泊、町を出る前に早起きして散策です。まずは前原一誠旧宅、そしてお墓参りへ。
前原一誠は天保5年(1834年)に生まれ、安政4年(1857年)に松下村塾に入門、松陰亡き後は長崎にて洋学を学んだ。長州征伐では参謀心得として、戊辰戦争では北越戦争にて長岡城攻略戦などで活躍する。
維新後は参議と兵部大輔を兼ねるが、大村益次郎の「国民皆兵」という徴兵令に反対して、木戸孝允と対立、さらに徴兵制を指示する山縣有朋に追われるように下野した。明治9年(1876年)秩禄廃止など新政府の方針に不満を持つ士族を集め、明倫館を本営として萩の乱を起こすが、即座に鎮圧された。前原は同年、萩にて斬首刑となる。

前原一誠旧宅
前原の墓がある弘法寺へ。
本堂。山号は寄船山で、弘法大師が唐から帰国した際に漂着した場所とされることから。現在は曹洞宗の寺院。
前原一誠墓。享年43。

野山獄・岩倉獄跡。正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、向かいの大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件を起こす。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄としたということです。安政元年(1854年)海外密航に失敗した松陰は野山獄に、従者の金子重之助は岩倉獄に投じられた。

山野獄跡。松陰は囚人たちに孟子の講義をし、俳諧や書を学んだという。松陰だけでなく高杉晋作ら多くの志士が入牢した。また藩の尊王攘夷派であった十一烈士だけでなく、保守派の椋梨藤太など、多くの人が処刑された場所。
岩倉獄跡。金子重之助絶命の詩碑と松陰が重之助に与えた詩碑が建つ。

続いては長井雅楽の墓がある海潮寺へ。文政5年(1822年)萩藩中老の家に生まれた長井雅楽は明倫館で学び、藩主毛利敬親の信任を受け、安政5年(1858年)に重役となる。開国論者であった長井は朝廷や幕府の公武合体派に歓迎されたが、尊王攘夷派である久坂玄随や前原一誠に命を狙われた。文久2年(1862年)坂下門外の変で幕府の公武合体派である安藤信正や久世広周らが失脚すると、藩内でも攘夷派が勢力を盛り返し、帰国謹慎を命じられ、文久3年(1863年)に切腹を命じられ、自邸にて切腹した。
尊王攘夷の青年たちの目からは、公武合体など軟弱な論に聞こえたかもですが、長井の評価は高く、また藩の事情や日本の対外政策を考えれば長井の考え方は自然であった。切腹の際も長井を支持する人は多かったという。岩倉具視は「長井より偉いものはない。木戸や大久保より偉い」と語っていたそうです。

海潮寺は曹洞宗の寺院。応永15年(1408年)石見国温泉津に建立され、毛利輝元の防長移封に際して、慶長12年1607年)萩に移った。
本堂。明治7年(1874年)火事で焼失、藩校明倫館の聖廟を移築して本堂とした。
右が長井雅楽の墓。





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