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SFの世界が現実に?「人工子宮」はヒトを幸せにするのか〈後編〉

「もし“生む”という行為そのものが、技術に置き換わったら?」
前編の最後に残したこの問いは、決して遠い未来の話ではない。

人工子宮には二つの顔がある。一つは「未熟児を救う医療技術」。そしてもう一つは、妊娠という身体的経験を完全に外部化し、「母体なしでヒトが生まれる」未来を開く「生殖技術」としての顔である。

後編では、この技術が私たちの社会や「母性」という価値観に、どのような揺さぶりをかけるのかを考えてみたいと思う。

【ショートストーリー:透明な子宮を覆う、不透明な言葉たち】

新年の挨拶が飛び交うカフェで、私は親友のリサと向かい合っていた。窓の外では、雪がちらちらと舞い、世界は新しい色に塗り替えられようとしている。しかし、私たちの会話は、まるで重い鉛を抱えているかのように沈んでいた。

「もうすぐね、赤ちゃん」
私がそう言うと、リサは無理に笑顔を作った。その眼差しには、すでに深い疲労と、何かに怯えるような影が宿っていた。
「うん。でも、人にはなかなか言えなくて」

リサは、少しだけ声のトーンを落とした。
「私が人工子宮を使っているだなんて。不妊治療で最後に残った、たった一つの受精卵だから、どうしても安全に生まれてほしかったの。でも、そこまでして子どもがほしいのかって言われちゃいそう。それに……」
私はただ頷いた。彼女の選択を、心から尊重する気持ちしかなかった。だが、リサの顔は晴れない。

「先日、実家で母に話したら、一言、『お腹を痛めてこそ、母親になるものよ』って。それ以上は何も言わなかったけど、その言葉が、ずっと頭から離れないの」
リサの声は震えていた。
「私だって、痛みを避けて楽したいわけじゃない。これは、私と、この子のための最善の選択だった。なのに……なんだか、最初から『母親失格』の烙印を押されたみたいで」

私は、過去の記憶を呼び起こしていた。
無痛分娩を選んだ友人が、義母から「便利な技術に頼って、母の苦労を知ろうとしないなんて」と、見えない刃を向けられ、深く傷ついていたことを。その時の友人の寂しそうな顔と、今のリサの表情が重なった。

雪は、ますます激しくなった。まるで、リサの心の中で降り積もる、誰にも見えない「偏見」という名の雪のようだ。

「私は、この子を愛してる。ただそれだけなのに」
リサは、スマホを取り出し、透明な人工子宮の中で成長しつつあるわが子の画像に、そっと指を当てた。彼女の指先からは、確かに温かい愛情が溢れているように見えた。
「大丈夫だよ」
私は静かに言った。
「お腹を痛めることだけが、母性のすべてじゃない。きっと、その子も分かってくれる」
カフェの窓の外で、人々は雪化粧した街を楽しそうに歩いている。

技術が新しい選択肢をもたらすたびに、私たち人間は、いつも同じ壁にぶつかる。
「古い通念」という名の、目に見えない、そして乗り越えるのがひどく難しい壁に。
リサの言葉は、その壁の分厚さと、その壁を打ち破ろうとする未来の母親たちの、静かな産声のように私の胸に響いた。

母性はお腹を痛めてこそ芽生えるもの?

生殖医療としての人工子宮

リサのケースでは、人工子宮は生殖補助医療(不妊治療)の一手段として用いられている。これは完全な胎外発生を可能にする技術である。この技術を利用すれば、受精卵から〈誕生〉まで、一切、母体を用いることなく、子どもをもつことができる。

リサのように、流産に悩まされる人や、子宮に問題があって「自分では生めない」女性たちなど、子どもをあきらめていたカップルにとっては、福音になる技術だろう。

この場合の人工子宮を、既存の生殖医療として機能してきた「代理母出産」(日本では禁止)と比較してみよう。
人工子宮は、代理出産に代わる技術になり得るのか。

人工子宮は「代理出産」の救世主か?

代理出産には、常に重い倫理的課題がつきまとってきた。
代理母となる女性が、いわば「生殖の道具」として扱われる懸念(人のモノ化)、経済格差を利用した搾取、そして「産んだ後に母性が目覚め、子を手放せなくなる」といった、人間が介在するからこそ生じる葛藤である。

一方、人工子宮は「ただの機械」である。
誰の身体も傷つけず、誰の尊厳も冒さないクリーンな解決策に見えるかもしれない。
しかし、だからこそ生じる別の危うさがある。

人工子宮へのアクセス権

人工子宮を使えるのは誰なのだろうか。「病気で産めない人」や、リサのように流産に苦しむ人に限定するのか、それとも「独身男性」やゲイ・カップルが利用してもよいのか、あるいは、女性の「仕事の都合」でも許容されるのか。これは代理出産にも共通する問いだが、機械化によって心理的ハードルが下がる分、その境界線はより曖昧になるだろう。

「生命」のビジネス化と格差

代理母という「人」が介在しない分、出産はよりビジネスライクに処理されやすいだろう。高額な利用料を払える富裕層だけが「安全な出産」を買い、低所得層は「リスクのある自然妊娠」を余儀なくされる。そんな「命の格差」が生まれる危険性はないのだろうか。

ただし、どれだけ技術が進歩しても「自分で生みたい」と望む人は必ずいると思われるため、単純な二分構造にはならないだろう。

「解放」が「支配」に代わる過渡期と定着期

人工子宮の技術確立と普及の過渡期には、先ほどのリサのように「お腹を痛めてこそ母」という古い通念に、人工子宮の利用者が苦しめられることが考えられる。

これまでも無痛分娩を選んだ女性が「苦痛に耐えてこそ母性が芽生える」という精神論によって肩身の狭い思いをさせられることがあるように、人工子宮もまた「楽をした生み方」という偏見に晒されるかもしれない。

そして、人工子宮の安全性が認められ、広く普及するようになった定着期には、 逆に、人工子宮が当たり前になり、自分の体で産むことが「非合理的でわがままな行為」として排除される可能性がある(前編の「マナミの葛藤」を参照)。

「解放」されたはずの女性たちが、技術の普及によって、新たな「あるべき姿」に縛られていく皮肉な構造が見えてくる。

【未来の産科クリニック】

近未来の都市。ガラス張りのクリニックには、人工子宮が静かに並んでいる。
管理を任されている医師は、並んだネームプレートを眺めながら、ふと感慨にふけってしまう。

• キャリアを中断させないために人工子宮を選んだ女性。
• パートナーを持たず、自らの意志で父になろうとする独身男性。
• 「安全性が高いから」と迷わず契約した富裕層のカップル。
• そして、本当は自分の体で産みたかったが、周囲から「リスクを考えろ」と諭され、泣く泣く利用に同意した女性。

人工子宮が「標準」になった社会で、「産む」という行為の意味はどこへ向かうのだろうか。

技術と人間性の調和はどうあるべきか

人工子宮は、ヒトを幸せにするのだろうか

技術が「不可能」を「可能」に変えるとき、私たちは「何ができるか」だけでなく、「自分たちは何を望み、どんな社会をよしとするのか」という、極めて人間的な問いを突きつけられる。

科学技術の進歩の影で、私たちが失おうとしているものは何なのか。
技術と人間性の調和は、どうあるべきなのか。
その答えは、まだ透明な容器の中で揺れているのかもしれない。

💫普段、大学で哲学・倫理学を教えています。
 学生に好評だったトピックを、noteで紹介していきます。

💫三澤直己さんに、本記事をご紹介いただきました!嬉しいです。ありがとうございます❤️

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