近世陣屋の城郭的構造について―兵庫陣屋を事例として―



第一章 はじめに

 「陣屋」という言葉を聞いたことがありますか?
陣屋とは江戸時代において、城以外の行政施設を指す言葉でした。では「城」とはなんだったのでしょうか?江戸時代の幕藩体制における大名たちは、国主、準国主、城主、城主格、無城という5つの家格に分類されました。このうち、国主、準国主、城主の家格が持つことができた藩の行政施設が「城」と明確に定義されたのです。城主と城主格の基準線は3万石であったそうです。一国一城令や武家諸法度などの法令によって城の修理などが厳しく制限された時勢下、陣屋という言葉は非常に多義的な概念として広がりました。陸奥国の藩領構造から陣屋の分類を再検討し、近世陣屋と町の形態について分析した土平(2009)によると、陣屋は構築者別にみると幕府の陣屋と大名(藩)の陣屋に大分類できるとしており、いずれも所領構造から区分しても一語に表せない例外的なものが多数あるとしています。例えば仙台藩の「要害」や岡山藩の「御茶屋」といった、主藩の支城的な運用をしたものも陣屋に含まれるとしています。
 さて、今回の記事の問題の所在ですが、城と陣屋はあくまで制度上の区別であり、実際に建造されたものの構造に焦点を当てるとその境界がより曖昧になっていきます。一般的に城の構造は、曲輪と呼ばれる城内の区画を複数持ち、堀や石垣、城壁で囲郭された空間です。翻って陣屋の構造を見てみると、城に規模こそ劣るが石垣や堀によって囲郭されているし、 三大陣屋と呼ばれる陣屋群の一角である1万 7000石の飯野陣屋は、本丸・二の丸・三の丸からなる総面積12万 8 千平方メートルの規模を誇り、3 万石級の大名の城と遜色ない規模です。また、実際に各地の陣屋跡を訪問すると、その跡地を示す石碑には「城趾(跡)」と記されており、各自治体や調査団体単位でも表記揺れが散見されます。
 このように、城と陣屋は曖昧な境界線で区別されてきた概念です。そのため、既存の研究は制度上の陣屋に焦点を当てたものが多く、構造に着目したものは少ないのです。今回はあえて構造に焦点を当て、兵庫県神戸市に存在する兵庫陣屋を例に挙げ、その「城郭性」について紐解いていきます。

写真1 兵庫陣屋跡に立つ石碑(筆者撮影)

第二章 兵庫陣屋の概要と絵図からイメージされる陣屋の変遷

 兵庫陣屋が所在した場所は、現在の兵庫県神戸市兵庫区にあたります。古くは港湾都市大輪田泊として行 基によって開かれたとされており、以降畿内の重要な港町として栄えました。12世紀後期に平清盛によって行われた日宋貿易では、宋国の貿易船が往来する貿易港として利用されたことで有名です。大輪田泊 がいつ頃から「兵庫津」と呼称されるようになったのかは不明ですが、1445 年に作成された「兵庫北関入舩納帳」には既に「兵庫」の表記が見られることから、この頃には兵庫津としての呼称が広がっていたと考えられます。
 さて、そんな港湾都市兵庫に城が築かれたのは、1581 年のこと。年を遡り 1578 年、織田信長の配下であった荒木村重が、居城の有岡城(伊丹市)に籠り反旗を翻しました。この際に村重が支配していた兵庫津も攻撃され、荒廃したと伝わります。10 か月の攻防の末有岡城は落城し、村重は尼崎城に逃れ、更に西に落ち延び、花隈城に逃れました。その花隈城を攻撃したのが信長配下の池田恒興でした。1580 年に花隈城は落城し、恒興はその功績を称えられ、信長から兵庫の地の支配を任されました。翌 1581 年には花隈城を破却して、兵庫陣屋の前身にあたる兵庫城を築き、城下町も整備されました。本能寺の変後の池田氏は美濃大垣に移され、兵庫は羽柴秀吉の蔵入地となり、後に行われる九州征伐や小田原攻めなどでは兵站港として利用されました。
 やがて江戸時代に入り、1617 年、尼崎藩主となった戸田氏鉄は兵庫を尼崎藩領に組み込み、1686 年には兵庫奉行が置かれ、これ以降兵庫城は兵庫陣屋と呼ばれるようになりました。
 1769年の明和の上知令によって陣屋の堀が埋め立てられ、兵庫勤番所が設置されました。明治維新後は兵庫勤番所に初代兵庫県庁が置かれましたが、わずか4か月で移転し、その後掘削された新川運河が陣屋敷地に覆いかぶさる形となりました。
 戦後は神戸中央卸売市場やイオンモール神戸南が建設されましたが、このイオンモール神戸南建設前に行われた発掘調査(第62次発掘調査)で、大規模な石垣が発見され話題となりました。発掘区はX〜Z区に区分けされ、石垣が発見されたのはZ区で、その出土した石垣の構成から、内郭と外郭からなる石垣造りの城郭であったことが判明しました。また、これ以前に行われた第57次調査でも石垣が検出されており、時代を下るにつれて堀幅が変遷していったことが確認されています(図2)。

図2 兵庫陣屋の堀幅の変遷
(神戸市教育委員会2012をもとに筆者加筆)


 現在これらの遺構は地表に留まっていませんが、復元された初代兵庫県庁や兵庫津ミュージアムでその歴史が展示されています。
 古い絵図を比較してその景観イメージを比較してみましょう。

図3 摂州八部郡福原庄兵庫津絵図に描かれた兵庫陣屋
(神戸市教育委員会2012より)

 この図からは、陣屋周辺の家々とその堀幅のサイズ感が読み取れます。絵図下側の堀は民家2ブロック分ほどの広さで描かれています。ここから読み取れるのは正確な寸法ではなく、当時の人々が思い描いていたイメージです。つまり兵庫陣屋はかなり広大な堀を有していたことがわかります。これは兵庫陣屋の堀が池田恒興の兵庫城時代のものを引き継いで使用されていたことが推測できます。
 続いて兵庫勤番所時代の絵図を見てみましょう(図4)。

図4 兵庫勤番所を描いた絵図
(神戸市立博物館より)

 堀幅のイメージが狭くなっています。これから兵庫勤番所の堀は図1にもあるように非常に狭いもので、あくまでも行政施設を区画するための溝として認識されていたことが推測できます。

第三章 兵庫陣屋の構造に見られる城郭性

 ここからは兵庫陣屋の発掘調査結果から地図上にその実態を復原したうえで、兵庫陣屋の「城郭性」に迫ります。図5は発掘調査で示された石垣の分布図を地図上に重ね、想定される兵庫陣屋の領域を復原したものです。

図5 兵庫陣屋の復原図(筆者作成)

青色が第62次発掘調査で判明した堀跡、黄緑色が各種絵図から推定復原した運河下に想定される堀跡です。新川運河とイオンモール神戸南によって完全に覆われており、地表面からその遺構を確認することは不可能です。出土した堀には、鍵の手状の折れが確認できます。これは「横矢」と呼ばれる構造で、石垣の強度を高める他、2方向からの攻撃を可能としたものです。石垣造りの近世城郭はほとんどがこの横矢を採用しています。また、堀幅は14.4mを測り、同時期に存在した近世城郭である尼崎城の18mの外堀と比較しても遜色ない幅です。この横矢構造と堀幅が、兵庫陣屋が城郭的であると指摘できる根拠です。
 しかし、全体的な城郭の規模としてはやや小ぶりでしょうか。この規模感が兵庫陣屋が陣屋格であった由縁なのかもしれません。

第四章 おわりに

 兵庫陣屋の構造は城郭的なものであるとして始まった今回の記事ですが、考古学や地理学の手法を織り交ぜて執筆しました。兵庫城として築かれた歴史に端を発し、時代に適応して陣屋という形式を取ったものの、その構造は近世城郭と比較しても遜色ないものであったことがわかりました。

参考文献

 伊丹市 2025.有岡城跡. https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKATSURYOKU/BUNKA/bunnkazai/SINAI_BUNKAZAI/KUNI_SITEI/1386843388423.html(最終閲覧日:2025 年 12 月 26 日)
 神戸市教育委員会 2012 年.兵庫津遺跡第 57 次調査―兵庫城跡の調査―.兵庫津遺跡現地説明会資料
 神戸市教育委員会 2017.兵庫津遺跡第 62 次発掘調査報告書
 神戸市中央卸売市場本場 概要.https://honjo.shijou-kobe.jp/about01.php(最終閲 覧日:2025 年 12 月 27 日)
 神戸市立中央図書館貴重資料デジタルアーカイブズ 兵庫勤番所絵図(写).https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/051_02.html(最終閲覧日:2025 年 12 月 28 日)
 神戸市立博物館 兵庫津絵図.https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=367386(最終閲覧日:2025 年 12 月 28 日)
 千葉県 飯野陣屋濠跡.https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-039.html(最終閲覧日:2025 年 12 月 25 日)
 土平博 2007.近世陣屋と町の形態に関する再検討—陸奥国南部を事例として—.奈良大学紀要 37:p65—p83
 兵庫県立兵庫津ミュージアム 当館について.https://hyogo-no-tsu.jp/about/(最終閲覧日:2025 年 12 月 27 日)
 兵庫県 兵庫津ミュージアムの整備について. https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk47/hyogonotsu_museum.html(最終閲覧日:2025 年 12 月 27 日) 
 山下史郎 2024.初代兵庫県庁舎となった兵庫勤番所建物とその復元.兵庫県立兵庫津ミュージアム研究紀要 1:p18-p27
 よみがえる兵庫津連絡協議会 兵庫津の歴史.https://www.yomigaeru-hyogonotsu.com/about/history/(最終閲覧日:2025 年 12 月 26 日)

 

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