はじまりは、いつもの場所で
誰よりも早く出社したレンは、ここで、その日のタスクを整理するのが日課になっている。
ここは外部の喧騒が遮断され、自分だけの世界に浸れる最適の場所だ。
おもむろに胸ポケットからスマホを取り出す。
それは、周囲から
「え、まだそんなの使ってるの?」
「ダサい」
「分厚い」
と散々言われる青い手帳型ケースに入っている。
しかしレンにとって、これはただのケースではない。
電子マネーが使えない場合の備えとしての千円札数枚とカード。
ピンチに備える絆創膏。
そして、閃きを逃さないためのメモ。
スマホ裸族には分かるまい、この安心感の重み。
レンはケースを開きスマホと向き合う。
まずSNSをひと巡りし、クライアントへの返信を済ませる。
続いてカレンダーを開き、今日の予定を頭に刻みつける。
そして最後に、執筆アプリを立ち上げた。
未完の小説の続きを打ち込みながら、彼はふと笑みを浮かべる。
「……よし!」
ひとつの文を打ち終えると、胸の奥がすっと軽くなる。
自分だけの時間。
この静けさの中でしか整えられない朝の形があった。
レンはスマホを閉じ、胸ポケットに戻す。
そして、壁のボタンに手を伸ばした。
「ピシャ〜ン!」
豪快な水音が響き渡る。
レンは少し伸びをして立ち上がり、身支度を整え個室のドアを開けた。
鏡に向って手を洗ってから扉を押した。
眩しい朝の光が差し込む。
オフィスのざわめきが戻ってくる。
レンは立ち止まって深呼吸をした。
そして、ビジネスマンの顔を整える。
──今日も悪くない。
いつもの場所から、世界が始まっていく。
了
