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痛みのあとに残るもの(不条理SS2)

それは、
季節で言えば春と夏の狭間。
光回線の営業をしていた頃の話だ。

空気が生ぬるく揺れていたある昼下がりの出来事だった。

当時やっていたのは、いわゆる"飛び込み営業"というやつ。

住宅街を歩き回り、これぞと思った家のインターホンを押して光回線の営業トークをかますという、心身ともに鍛えられる修行僧のような仕事だった。

凄腕営業マンなら、

「ここはいける」

と直感で見抜き、門前に立った瞬間すでに勝利の気配が漂っているらしい。

が、僕にはそんな営業センスも、とびっきりの営業スマイルもなかった。

選んだ家の基準は「そこに家があったから」、ただそれだけだった。

その家は朱色の屋根が印象的で、平和な日常を想像させる一軒家だった。

控えめにピンポンを押す。

沈黙。

時の流れが変に重たく感じられるのは、この仕事の宿命だ。

すぐにもう一度押すべきか、しばらく間を置くべきか。
この一瞬の判断が、相手にとって僕という存在の印象を決めてしまう。

家の広さから、住人の動きを想像する。
ご主人は今、立ち上がって背筋を伸ばし、スリッパを履いて玄関に向かってくる……その途中くらいだろうか。

「はい」

小さくも、確かに返事があった。

思わず背筋が伸びる。

飛び込みの営業をしていて悟ったのは、この『はい』にもいくつかの種類があるということだった。

怒りを含んだ「はい」、
義務的な「はい」、
そして、好意的な「はい」。

今日のそれは、奇跡的に最後の「はい」に聞こえた。

足音が近づき、やがてドアが開かれた。

僕は、鏡の前で何度も練習した営業スマイルをお披露目しようと構えた。

と、次の瞬間、

地を裂くような疾風とともに黒い影が飛び出してきた。

ドンッ。

太ももに激痛が走る。

見下ろすと、僕の太ももにかぶりつくドーベルマンが。
凛々しい眉、光る鼻先、地獄から来たかのようなスピード感。
あの泣く子も黙るドーベルマンくんだ。

「すみません!」

飼い主らしき中年男性が犬を引っ張り戻す。

なぜかその瞬間、僕の中で営業魂に火が灯った。
いや、一種の激痛ハイ状態だったのかもしれない。

「実はですね、本日は光回線のご案内に……」

いつもより滑らかな営業トークを繰り出す僕。
気まずさからか、飼い主殿も最後まで話を聞いてくれた。

が、結果は……

「うちは結構です」

ですよね?
と思いながら、最後の一押しをかけようとしたその時。

さっきの黒い影くん、再登場。

「こら、だめでしょ!」

飼い主殿の声だけが残り、ドアは閉まった。

負け犬、いや、犬に負けた僕。

その時の僕の感情は、
怒り?
不甲斐なさ?
失望?

正解は、
「お腹空いたな」
だった。

近くのショッピングモールに向かって、とぼとぼと歩き始めていた。

モールのトイレでズボンをおろし、太ももに刻まれた歯形を確認した。
痛みはある。
でも、なぜか少し笑えてきた。
ドーベルマンに噛まれる営業マン——そんな話、聞いたことがない。
貴重な経験をしたものだ。

何故か、訴える気にはならなかったし、医者に行く気にもならなかった。

「まあ、飼い犬だから、狂犬病は大丈夫だろうし」
と、自分を説得しながら、フードコートに向かう。

チキンを買って窓際のカウンター席に座った。

一口かじりながら、ふと思った。

人生って、たまにこうして、いきなり太ももを噛まれるようなことがある。
それでも、人は歩き続けるのだ。

座面下のレバーで目一杯椅子を高くした。
眼下に駐車場が見えた。
入口に駐車待ちの車列ができている。
ここからだと、駐車場の空き具合が良く見渡せる。
「あそこが空いてるよー」
教えてあげたくなる。

もう一口チキンにかぶりついた。
両肘をカウンターについて手のひらに顎を乗せた。

その時、椅子がガクッと下がった。
勢いで手のひらが顎を押して、舌を思いっきり噛んでしまった。
太ももの痛みも忘れ去る新たな痛み。

今日の営業はやめた。

鉄の香りが混じったチキンを、人生の不条理と共にゆっくりと噛みしめる。
太ももに刻まれた歯形の痛みと、舌の痺れを抱えながら。

◇◇◇

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