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野ばらのコロン

「なあ、何か匂わねぇ?」
と若い男が言った。
「え?なに?」
と若い女が答える。

通勤時間を過ぎた後の、平日の各駅停車の車内は空いていた。
ところどころにポツンポツンと座席のシートの色が浮いている。
だが、ふたりは座らずに、ドア脇の手すりにもたれていた。
なるほど、空いている座席はどこもひとつずつだ。

「なあ、匂うだろ?」
「え~、わかんない~。何の匂い?」
「なんかさ~、花の匂いだよ。」
「私、感じないけど・・・。何の花?」
「え~っと・・・」
男はしばし考える。

「それよりさ~、あの子ったらさ~、カレシともめてさ~」
女の話は突然始まる。
「うん、うん」
男の相槌。
「でね、アタシにさ~、泣くわけよ~。で、アタシはさ~、あんなオトコやめろってね・・・」
「うん。」

聞いているのかいないのか、真剣さゆえの相槌か、それとも口先だけあわせているものか、その境は微妙である。
優しさと面倒くささの境界線も見にくいものだ。

次の駅に着いて、ドアが開いた。

人の乗り降りが、小さな風を起こす。
凪いだ空の下にも。

「なあ、やっぱ匂うよ。なあ、お前、わかんねえ? 何かさ~野原のさ、花のさ~」
「そうなのよ、であの子ったら、別れるからアタシに一緒に来てくれって・・・」


昔の化粧品の匂いが苦手だった。
だから、本来メイクの楽しさに目覚める10代から20代、私はほとんど化粧をしなかった。
美容院も、かつては独特の匂いがあってあまり得意ではなかったけれど、最近はどこも人工的な香りをさせないように気を遣っている気がする。
でも、仕上げのスプレーは断る。

その日は、めったにつけない「野ばらのコロン」を耳元にちょっとだけ、つけてみた。
それは、手仕事でオリジナルの香水をつくっている工房のもの。
古民家の佇まいに惹かれてふらりと入った店がたまたまそうだっただけ。
オーナーの女性が、ひとつひとつ手作業で花のエキスを抽出しているらしい。

容器にもラベルひとつ貼っていない、素朴な売り方で、売ることより作ることを楽しんでいるらしいその姿勢が好みだった。
そこにお金を払う気になった。

気分が落ち込んだときに、ふっとつけてみることがある。
ほんのわずか。
きっと誰にも気づかれないだろうと思って。


また、ドアが開いた。
風が私の耳元をかすって吹く。

「なあ、あれじゃねえ? たんぽぽとかヒヤシンスとか」
「んでね、カレシに言ったわけ・・・え?」
「だから、たんぽぽとか・・・」
「あのさ、たんぽぽって匂ったっけ? ヒヤシンス・・・ってなによぉ~、いきなりそんなの思いつくわけ?」
はじけるように彼女が笑う。

ヒヤシンスの香りは知らない。
でも、彼らのすぐ横、一番端の座席に腰掛けている私も、ちょっと笑った。

「誰かの香水じゃないの?」
鋭い。

間髪を入れず、彼が首を振った。
「違うよ!絶対違う!そういうへんな匂いじゃなくて・・・もっと普通の花の匂いだよ。」
「ふーん。私はわかんないけど・・・。でね、さっきの続きだけど・・・」

電車がまた次の駅に着いた。
ふたりが降りていく。
彼女がしきりに彼に話しかけ、彼が相槌を打つ。
後姿でもそれがわかる。

その相槌は、面倒くささではなく、優しさゆえのものだ、と思った。
そうであってほしいと願ったのかもしれないが。

目的地に着き、私も降車した。
ホームに降り立ち、後ろで留めていたバレッタをはずすと、スプレーをしていないストレートの髪は、待っていたかのようにはらりと頬までこぼれた。

かすかに野ばらの香りがする。