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紙がなかったら葉っぱ

だいぶ前に「だらしない」の「だらし」ってなんだ?と思ったことがある。
調べてみると、本来は「しだらない」だったのが、音節入れ替えで「だらしない」になったのだとあった。
「しだら」ってなんだ?

子供の頃、遊び道具がなかったので、年の離れた兄の持っていた角川の国語辞典を引いて楽しんだ。
最初に引いた言葉の解説に出てきた言葉を、次に引く。
そこに出てきたものを、また引く。
堂々巡りになると失敗。
予期せぬ展開があって、最初に引いた最後と終わりの言葉が全然違う方向性になると成功である。

百科事典は金持ちの象徴で(世界名作文学全集も)、憧れたけれどついぞ手にしたことはない。
国語辞典も、兄が古本屋で買い求めたもので、その時点でかなり古かった。

だから、時代とともに変わっていた言葉があったとしても、そこには反映されていない。
それでも、そうやっておもちゃ代わりにしていた国語辞典は、私が中学生になっても、高校生になっても、新しいものと買い替えなかった。
更新された知識は、頭の中にだけあって、それでいいと思っていた。
それは、私が嫁ぐときにも持ってきて、その後ずっと開きもしないけれど、いまも本棚の隅にある。

わからない言葉を辞書で引かなくなってずいぶんと経つような気がする。
だから、その国語辞典は、もう辞書ではなくて、ただの思い出の品になっている。

「しだら」とは、「修多羅」と書き、元々はサンスクリット語の「スートラ」から来たという。
学生時代、般若心経の文字をひとつずつサンスクリット語に置き換えて語源と哲学を学び取るという講義に出ていた。
何かひとつ覚えたからといって、友達に自慢しても「ふぅーん」としか返ってこない。
日本で暮らしていくのにサンスクリット語の必要性はとことん低い。

でも「そんなことを知って、なんの役に立つの?」という学問が、私は好きなのだ。
なので、「しだら」を辿っていった先にサンスクリット語が登場して、「おおっ」と喜んでしまった。
以前の旅で出会った人に、予期せず別の土地で再会したような気分だ。

「修多羅」とは、経典を書いた葉を束ねる紐のこと。
おお、紙がなかったときは葉っぱに書いたのか。
野外でウンコしたとき、紙がなかったら葉っぱで拭くもんなぁ。
やったことないけど。

お経を書いた葉っぱを秩序よくきれいにまとめるための紐。
それに否定形の「不」をつけたのが「ふしだら」である。

なんと「だらしない」と「ふしだら」は、まるで兄弟姉妹のような言葉だったのである。
そう言われりゃそう。似てる。
言われなくてもそうなんだけど。

なんてことを、いまも覚えてる。
生きていくのに何の役にも立たない。