ねったほった
母は、ドラマが好きだった。
父が飲み歩く夜は、テレビのチャンネル権は母にあったから、夜の9時10時から始まるドラマをよく二人で見た。
特に祖母の自宅介護が始まってからは、家族旅行どころか日帰りで遊びに行くことすら叶わなかったから、祖母を寝かしつけたあと、娘と二人でドラマを見ることは、母のしんどい日常の数少ない楽しみだったと思われる。
当時の連続ドラマは、いまの1クール(全10回ほど)よりはずっと長くて、その分ストーリーの進行も遅かった。
スマホがない時代は、男女のすれ違いを描くメロドラマには絶好の時代だった。
逢えそうで逢えない、別れそうで別れられないという関係が毎回演じられると、母は焦れて「ねったほったしている」と突っ込んだ。
「ねったほった」を、私はずっと方言だと思っていた。
今季のドラマのほとんどに途中で飽きてしまった。
昭和の長いスパンのものに比べてずっとスピーディーかつわかりやすくなっていると思えるのに、飽きてしまう。
胸の中で「だってねったほったしてるんだもん」とつぶやいて、自分で「え?」となった。
ねったほったってなんだ?
いままで忘れていた言葉。
初めて検索してみた。
すると。
ない。
母の郷、働いた場所、そのあたりの方言かと思い込んでいたが、方言を記したサイトにこの言葉はない。
では、これは母の造語だったのか?
しかし、私にはそのニュアンスがしっかり伝わっていたと思う。
これをほかの言葉に言い換えることは難しい。
そして考える。
人の人生はみな、どこか「ねったほった」しているのだ。
したいのにできない。
やりたくないけどやらなければならない。
義務感と使命感と責任感と、憧れと嫉妬と欲望らを抱え込んでは、どちらかの果てまでは行きつくことができずに、漆黒と純白のあいだの無数のグレーゾーンを行ったり来たりしながら暮らすのだ。
焦れながら、ときに開き直りながら、死に向かって時の道を進むのだ。
だからこそ、人は物語の中に明確な白黒を求めるのかもしれない。
そして、1話完結のドラマが増え、以前は半年あった連続ドラマは3か月足らずで終幕を迎える。
自分の「ねったほった」した結婚生活に白黒をつけた私は、あの頃の母のようにドラマを楽しむ。
けれど、もう「ねったほった」が通じる人はいない。
