役に立たないブログを書きたい
古い城下町または門前町の骨董品屋が好きだ。
ほとんど買うことはないけれど、冷やかして歩くのが好き。
営業しているんだかいないんだか悩んでしまうような佇まいで、思いきってたてつけの悪い引き戸を開けると、とたんに漂う独特のにおい。
単に埃っぽいだけなのかもしれないが、私には時代とモノの呼吸が込められた妖気のような気がする。
奥には、胡散臭い客を、ちょいと眼鏡をずらしてピントを合わせ、より胡散臭い目で品定めする老店主がいて、瞬間的な胡散臭さの対決があるのがいい。
その対決自体が「あそび」である。
小洒落た街にあるアンティークショップはあまり得意じゃない。
入りたいけど入れない。
勇気をもって入っても、なんだか居心地が悪い。
愛想のいい美形のおねえさんあたりが出て来たりすると、それは胡散臭さを通り越して、一気に「騙されまいぞ」という構えとなり、「あそび」の要素は雲散霧消する。
それで、ろくに品物を見ずに、とにかく逃げることに専念するはめになる。
無駄、と言われるものが好きである。
叶うならば、身の周りをすべて「役に立たないもの」で埋め尽くして暮らしたい。
私は「反・断捨離」である。
ものごとやモノを、役に立つか立たないかで判別し、後者を廃棄することにある種の反発心を抱いている。
だから、私の暮らしは、必要なものは足りていないが、必要でないものは、ごろごろしている。
今は特に収集癖はないが、たとえば「醤油鯛」を収集、分類する生活など、素晴らしい!と思っている。
経験も同じ。
そんなことをして何の役に立つの?という質問が、大嫌いだ。
役に立つかどうかで行動を決める人生など、私にはつまらない。
役に立つことを第一と考える人は、誰かとつきあうのにも、この人とつきあっていれば得だ、とか、損だ、とかを基準にするのだろうか。
そういう人とはつきあいたくない。
一見、役に立ちそうにない、そんなモノ買ってどうするの?と言われる骨董品やガラクタに惹かれるのは、その胡散臭さが、私の心を純粋にそのモノだけに惹きつけてくれるから、かもしれない。
役に立つものは便利だけど、役に立たないものは、私に安心感を与える。
役に立つものが与える、役立てねばならないというプレッシャーを、役立たないものは与えない。
ただ、そこにあればいい。
理由もなく好きだから、それだけが、私にとっての存在価値。
そういう文章を書きたい。
ただの好みだけれど、小見出しや文章途中の強調太字があるのは苦手。
仕事でさんざんやっているせいもある。
仕事の資料として文章を読むときは、小見出ししか読まないこともあるので、残念な気がする。
文章途中の太字は、「ココが試験に出る」と言われているような気がして、興がそがれる。

「いびつな心に
正方形の常識とやらを
詰め込んで
余ったところが
本当のわたし」
