なぜ人々は潰されるのか――クルアーンが警告する二つの傲慢
どうして殺されなければならないのですか?
ラマダーン月の日中、学校にピンポイントで爆弾が降ってくる。想像しただけで怒りが込み上げる。そして恐怖におののく。たとえば、イランのミナブの女子学校。175名以上の生徒・教職員が犠牲になったという[1]。また、コムの宗教者たちの関連ビル[2]。空爆がうまくいきすぎて、後継者候補も全員殺した[3]と、成果を強調する大統領。これまで長年にわたって辛抱強く続けられてきた核開発に関する協議など、お構えなし。気候変動枠組みからも国連への支援からも躊躇なく引き上げてしまう大統領である故、さして驚きはないが、ハメネイ氏の後継者選びには自分の関与が必須だ畳みかける[4]。民主主義も国民主権も、学校の生徒たちともども押しつぶされた格好だ。邪悪な国家の国民たちだから殺されるのは当たり前だとでも思っているのだろうか。文明消滅の前兆か。
悪魔呼ばわりの応酬
「邪悪だ」「悪魔だ」というアメリカやイスラエルに対するレッテル貼りは、イランの側の常とう手段でもある。その根拠は《聖典クルアーン》の啓示にある。「明白な敵としての忌まわしい悪魔」。聖典の随所にみられる定型的な表現である。民族や人種のいかんにかかわらず、完全に邪悪な人間も、悪魔そのもののの人間も、本来はいないはずだが、相手側の国民を捕まえて、言葉を浴びせる。憎悪の炎は強まるばかり、当然相手側の連鎖も引き出すので、実際に火を放ち殺害を犯しても、意に介さない。それぞれにとっては正義の行使だからだ。一人ひとりを見れば、完全な邪悪も、完全な悪魔もそこには存在しない。現実に対する観察の放棄と、思考停止が双方を支配していることは明らかではなかろうか。
二つの啓示
ところで、啓示によって降された一つ一つの節のことをアラビ語で「アーヤ」という。アッラーからジブリールを介してムハンマドに降されたのであるから、「マンズール (منزول) (نزل nazala(ナザラ)「降す」)」の受動分詞)」と形容される。啓示といえば、これだけかと思われるかもしれないが、「降される」のほかに、「見られる(منظور manẓūr)」と表しうるアーヤがある。
たとえば、《人間に彼の食べ物を見させよ》(アバサ章24節(80:24)のように、「ナザラ( نظر naẓara)」を含む聖句はその代表格である。
「ナザラ( نظر naẓara)」とは意識をもってじっくり見ること、観察すること。この動詞の三語根から「メガネ」を意味する「ナッザーラ( نظارة naẓẓārah)」という言葉が派生していることを思えばイメージしやすいかもしれない。それが、「よく見なさい」あるいは「人間によく見させよ」といった命令文の形で降されている。
啓示の命令の通り、時間をかけて観察してみれば、ブドウであれ、ナツメヤシであれ、オリーブであれ、それぞれの状態が変化しいていることに気づくであろう。そして、その変化もまた、創造主アッラーによってもたらされたと知れば、アッラーへの敬虔さは否応なく高まる。「降ろされた」啓示と「観察される」啓示。この二つの啓示の間の往復があって、はじめて少しでもアッラーの意図に即した解釈が、生み出されるのではなかろうか。
神格化という不信心
しかしながら、森羅万象の変化、すなわち「観察される」系の変化へのまなざしを棄ててしまうと、変化を受け容れない「制度」が「神」の代わりになる。生きた応答であったはずのものが、国家装置になり、権威機構になり、固定化された法の運用となり「見る」より「守る」が優先されるようになる。そうなると、人々や社会の変化を取り込むことは難しい。結局、「制度」を守り続けることが唯一無二の神として神格化されてしまう。硬直化した権威体制だけが残り続ける。そうなるとイスラームの信仰は瀕死の重傷である。
これに対して、アッラーの存在とその創造を無視して、神に成り代わろうとする者たちもいる。今回で言えば、米国とイスラエルが行なっている圧倒的な暴力の行使は、まさに神の裁きを自らの手で行なおうとする暴挙と言いうる。
観察放棄の帰結
「観察される」系の啓示の中に、《それ故、汝らは地上を旅し、真理を虚言と断じた者たちの末路がどうであったか見るがよい》とある。
変化をつぶさに見よというそのアーヤの訴えにもかかわらず、自らが神に成り代わったような尊大さ、傲慢さは、止まることを知らない。その結末は、ジャースィミーン(جاثمين)(うずくまって、身動きが全く取れない状態)[5]。アードの民(アアラーフ章78節)、シュアイブの民(高壁章 91節)、サムードの民(フード章 67,94節)、マドヤンの民(蜘蛛章37節)らが、彼らの日常の生活の場で強制終了を余儀なくされている。
彼らが踏みにじっているのは、無辜の人々の命と生活と将来だけではない。イランの国家主権や、国際法や、人道主義だけでもない。啓示を降した創造主の存在自体もまた無きものにされている。まさに不信心の極み。アメリカ、イスラエルの暴力は、イランの無辜の人々を地にひれ伏せさせた。
他方、イランの神格化政治は、自らを地に伏せさせる危機に瀕した制度だとも言える。イスラームの制度化によって「変化の観察」の放棄の帰結が待ち受けてはいないだろうか。
生命の重さ
巨大地震のあるいは巨大台風の正確な発生予測すらおぼつかない中で、たとえ、ネット回線を遮断し、人工知能によって宇宙空間から監視し、制空権を奪取して地上に絨毯爆撃を続けたとしても、あるいは、核弾頭の数の多さで、他国を威嚇する程度では、とてもではないが、人間を、最後の裁定者などとすることはできない。尊大、傲慢の行き着く先は、ジャースィミーンという文明全体の破滅だからだ。最先端の医療でさえ、PS細胞は作れても、クローンは作れても、人間を創造することはできていない。そんな人間に別の人々の生殺与奪の権を持たせていい理屈がない。先ずは謙虚にこのことを認めよう。結局、神に成り代わろうとする者は、やがて他者を地に伏せさせ、そして最後には自らもまた地に伏すことになるのだから。
「無辜の命を奪うことは、全人類の命を奪うことに等しい」[6]。クルアーンの中に降されていて、イスラームのみならず、アブラハムの宗教全体に通じる生命に関する大原則である。彼らのラマダーンのサウムの忍耐に祝福あれ。アッラーフ・マアクム・ワ・アッラーフ・アアラム(アッラーはあなたがたとともにあり、すべてを御存知)。
脚注
[1] https://www.jiji.com/jc/article?k=2026030700336&g=int
[2] https://novaist.jp/articles/israel-strikes-qom-assembly/
[3] https://www.yomiuri.co.jp/world/20260304-GYT1T00352/
[4] https://www.bbc.com/japanese/articles/cpqwx7g9p7vo
[5] 「ジャースィミーン جاثمين」は、「جثم」の能動分詞の複数形所有格。『リサーヌ・ル・アラブ』によれば「جثم」は、「しゃがみ込む」人間のみならず、鳥、ダチョウ、子鹿、ウサギ、トビネズミは、しゃがみこみ、しゃがみこむ。聖典のジャースィミーンについては、「それで彼らは家の中でうずくまった」とは、「地面に横たわる死体を意味する」とし、アブー・アル=アッバースを引いている。「彼らは災難に見舞われ、その中で跪いて死んだ。『ジャスィム』という言葉は、鳥がうずくまるように、足で跪くことを指す。こうして彼らは苦痛に見舞われ、跪いて死んだ。つまり、跪いて死んだのだ」。
[6] 当該聖句の全文は次の通り。《人を殺したり、地上で悪を働いたりという理由もなく人を殺したものは、全人類を殺したの同じである。人の命を救ったものは、全人類の生命を救ったのと同じである》(食卓章32節)
カインによるハベル殺しのあと、大カラスに教わらなければ、弟の亡骸を葬ることすら知らず、後悔する者の一人となったことを受け、アッラーがイスラエルの子孫に対して定めた掟(食卓章31,32節)。
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タイトル画像
File:Ancien Théâtre Ancienne Corinthe - Corinthe (GR15) - 2022-03-24 - 14.jpg
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