「その日」はいつ?—―《聖典クルアーン》アバサ章33-42節をめぐって
AIによる要約:
アバサ章33–42節に描かれる「その日」は、終末の出来事としてだけでなく、現代の私たちの生にもすでに入り込んでいる可能性がある。人は極限状態において近親からすら離れ、自分のことで精一杯になるが、その構図は日常にも見出される。問題は、耳をつんざくはずの「轟音」が聞こえているかどうかである。情報や雑音に囲まれた現代において、人は本来聞くべき声を聞かず、意味を覆い隠してしまう。不信心とは、意味の欠如ではなく、意味への不感症である。終末は未来の出来事であると同時に、日々の選択の中に現れている。だからこそ、いま耳を澄まし、自らの状態を見つめ直すことが求められている。
みんな逃げて行った
食べ物を通じて、創造主の恩恵に感謝し、称讃し、祈り続けている人々には無縁かもしれないが、耳をつんざく轟音がやってきた時[1]、その日に起こるとされていることが、なかなか厳しい。ある人はその日、彼の兄弟、母親、父親、配偶者、息子たち、つまり、近親たちから逃げ出してしまうというのだ。彼らからの厳しい責任の追及の所為だという。
アッラーズィーによれば、兄弟は『お前は自分の財で私を助けなかった』と言い、両親は『私たちへの孝行を怠った』と言い、妻は『禁じられたものを食べさせられた』と言い、子どもたちは『私たちを教えも導きもしなかった』とそれぞれ訴えるという[2]。
たしかに、この世では、近親をはじめとする周りの人々に対する責任を果たすために生きているという側面が人にはある。
自分のことで精一杯
その轟音が耳をつんざいていった後、彼らとは距離を置き、これらの訴えから逃れることができるのである。啓示によれば、「その日、すべての人は自分のことで精一杯となり、家族のことに気を留める余裕すらなくなるという。ところが、その日、人々は2つに分けられるともされる。幸せな者たちと不幸な者たち。《彼らの顔はその日、一点の曇りもなく輝き》、《(現世的利益の獲得で)笑いが絶えず、アッラーの満悦を得て喜びが絶えない》。アッラーズィーはその輝きを「この世の束縛から解放され、聖なる世界と神の満足と慈悲の位に結びついたことによるものである」としている。また、『輝く』はこの世とその責任からの解放を指し、『笑う』『喜ぶ』は理論的能力と実践的能力、あるいは利益の獲得と尊崇の獲得に対応するとも解される。」としている。
顔が黒い
これに対して不幸な者たちの状態は如何に。《その日彼らの顔には、黒い塵が付着する》《黒ずみが覆いかぶさる》。しつこい塵と黒ずみが同時に表れているような状態。まるで、不信仰と放埓を合わせ持っていたかのように、彼らの顔は黒い塵と黒ずみに覆われているとされる。
こちらのグループでは、義務からの解放というような、前向きな注釈に結びつかない。その日になってしまった時、顔が黒ければ、それは、地獄へ直行することを意味するのであろうか。
聖典においては、最初に兄弟から逃げたのはハービール、両親からはイブラーヒーム、妻からはヌーフとルート、子からはヌーフであるとも言われる[3]。ハービールは、人類最初の殺人の犠牲者になってしまったものの、イブラーヒームにせよ、ヌーフにせよルートにせよ、彼らは、近親とのつながりを断った後もなお、それぞれ現世を生き残って、預言者としての使命を貫いている。
聞こえますか?
このように、近親との間に距離ができ、関係が断たれたうえでもなお、ある者は幸せに、またある者は不幸に見舞われるということにはならないか。そう考えると「その日」は、終末であるというよりむしろ、兄弟から、親から、配偶者から、子供から押し付けられた、アッラーの満足からはかけ離れた義務の履行から解放されて、終末としての意味を持つと同時に、いまこの瞬間にも起こりうる出来事として読むこともできるのではないか。抑圧されているすべての人々が、理不尽な要求からのこうした解放を求めているはずであり、彼らにとってはむしろ「毎日がその日」でも構わないのではないかと思われる。
それに、「その日」にならなくても、自分のことで精一杯で、自分の利得に忙しくて、近親ですらその犠牲にするような人がそこかしこに見出されないか?彼らにとっても、毎日が「その日」である。
では、その轟音はどこへ行ったのか。轟音紛いの爆音、騒音、人の言葉も含めた雑音に、耳を塞がれているのではないか。
「その時」までには
「その日」がこのような状態に置かれていたとするのなら、幸せな者たちと、不幸な者たちという2つのグループが必ずしも固定的ではないかもしれないことに思い至る。アッラーズィーによれば、大罪を犯した信者がどちらのグループに振り分けられるのかについて宗派間に論争があると言うが、この振り分けでさえ、毎日変わる可能性が出てくる。
アッラーズィー自身は、幸せな者たちと不幸な者たちという2者択一ではない、第三の範疇の存在の可能性を示唆していた[4]が、この2者択一自体が、日々変わりうるのだ。
しかも、二つのグループの存在は明記しても、それぞれのグループの行く末、天の楽園であるとか、燃え盛る火獄であるとかと言った、言及のないアバサ章である。
ということは、その日は、この日で、日によって顔の状態も変わりうるとさえ言いうるのではなかろうか。この世の終わりという「その時」が来るまでにはまだ猶予があるのかもしれない。
恐怖は希望
「不信心」という言葉の3語根「カファラ( كفر )」の原義は「隠すこと」である。「耳」は覆い隠すためにあるのでも、聴くべきことを聴かないために持たされているのではない。たしかに、この世の終わる轟音は聞こえてこないかもしれないし、もしも一度聞こえてしまえば耳がつぶれるため聴力自体を奪われてしまう。だからこそ、アッラーの声にはつねに耳をそばだてておきたいものだ。聞かないことがすなわち隠すことであり、したがって、不信心だからだ。
ただ、そのメッセージを、声を通じてであれ、目を通じてであれ、まっすぐに受け取る努力を続けたのであれば、不信心からも、この世の終わりの大轟音からも、きっと解放されるはずである。聴力を潰す轟音を恐れるのなら、自らの聴力を確かめ、被っている埃があるのなら振り払って、少しでも輝ける顔の持ち主であるよう努めたい。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] ( فَإِذَا جَآءَتِ ٱلصَّآخَّةُ (33) )《聖典クルアーン》アバサ章33節
[2] アッラーズィーのタフシール、アバサ章34-36節。
[3] アッラーズィーのタフシール、アバサ章34-36節。
[4] アッラーズィーによれば、アバサ章の聖句の解釈についてムルジア派とハワーリジュ派の間に論争があるという。ムルジア派は、礼拝を行なう罪人が、礼拝を行っていることをもって、たとえ罪人であっても不信心者とは言えず、大罪の懲罰は受けないと論じた。これに対してハワーリジュ派は、他の証拠の検討を通じて、大罪を犯した者は、不信心者である故、懲罰を受けるとした。
これに対して、アッラーズィーは、アバサ章では、信者を2つの集団に分けて扱われているだけであり、第3のグループの存在は否定されていないとしている。
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タイトル画像:
サハラ砂漠(モロッコ、メルズーガ)の朝日(2012年3月筆者写す)
