「天賦の人権」のロジック
ねぇ、呼ばれているよ
天空は裂けて砕け散り見る影もない。
大地は、四方八方に引っ張られて、
その上に乗っていたものは、急峻で天高く聳え立つ山も
堅牢な土台に高く積み上げられた塔もお構えなく崩れ去る。
大地の腹の中のものは、財宝も遺体も鉱物もすべて吐き出される。
これは、《聖典クルアーン》「インシカーク章」冒頭の最後の日の描写。
まさにこの世の終わりの情景だ。
天地がひっくり返るどころではない。天地はまさに消滅の淵にある。
そこへ、「人間よ」と呼びかける声。名前で呼ばれたときのようなリアルな呼びかけだ。声の主は、「人間」を創った御方。どうやら、この世の果てに、この世ではついに評価されなかった小さな善い行いや、この世では見逃されていた小さな悪行が、いよいよ清算されるのらしい。
その清算、右手に記録を渡された者にとって簡単。すぐに終わる。
背中の後ろから左手に記録を渡された者には、尋問と懲罰が待つという。
「各人に各人のものを」[1]地上ではなかなか実現できないこの正義がいよいよ実現するのだから、報償にあずかれる者たちは少なくともその声に反応しそうなものだ。
誰がほめてくれるの?
ところが、振り向く者がいない。おいおいである。
人間を創った御方は言う。「あなたは、あなたの主に向かって、本当に労苦をものともせず頑張り続けるね」と。
ところが、言われている方は、誰のことかすらわからない。試しに、「あなたの主は誰ですか?」と訊いてみる。
すると、ある者は、皇帝様と言い、ある者は、王様だと言い、またある者は大統領だと言う。いずれも神の似姿をしているのだとか。
そして、私の主の皇帝様は、私の主の王様は、あるいは私の主の大統領はきっと、「各人に各人のものを」お与えになるはずですと。
さっき、「人間よ」って呼びかけがあったと思うけれど、聞こえていなかったの?「聞こえていたけれど、自分のことだとは思わなかったよ。ご主人様から頼まれていた仕事に忙しかったからね。」
それに、「人間」である前に、「皇帝様や王様の臣下」だったし、あるいは「国民」だからね。偉い人たちがいて、その人たちの「国」の中にいられるからこそ「人間」でいられるってことなんだ。
「あなたの主」
「天賦の人権」という言葉があるけれど、天が与えたということより、与えられた人権をいかに国の中にいきわたらせることができるかの方が大切だってことだ。となると、いよいよ、「あなたの主」は大切だ。
なるほど、「人間よ」と呼びかけられても振り向かないはずだ。
何々国の誰々さんって呼びかけなければ、振り向いてはもらえない。
ということは、「人権」の意義は、天が与えたことの「普遍性」より、各国の国民として「各人に各人のものを」実際に享受できる「個別性」のほうにあるということ。そうであるからこそ、主権者が、人権の享受者にもなりうるという立て付けだ。
それにしても、人間の創造も、もちろん世界の創造もしていないのに、自らを「神」とし、あるいは「神」と奉られて「私の言うことを聞きなさい」と言っている国家のリーダーが相当数存在する。いやそれだけではない。この神のために命や財産を捧げるのは当たり前。拒めば非国民だ。
このリーダーにしても、率いられている民衆にしても、「天が与えた人権」には関心がない。「王から実際に分け前として与えてもらえる「人権」のほうだ。それが良好に行われることは「効率的ガバナンス」の名前で呼びうるようだ[2]。
だから他国の民衆が人権の恩恵に浴しているかどうかは、そもそも関心がないのだ。国民はいても、つまり自国繁栄や安全保障に強い関心はあって、人権の実現に躍起にもなるのだが、そのために他国の人々の人権が蹂躙されることの異議申し立てはつながらない。パレスチナしかり、ウクライナしかり。そこにあるのは暴力による「自分たち」の「国家」にのみ通用する正義の実現だ。
「インサーンの主」
来世までをも含めて「各人に各人のものを」を実現するはずのイスラーム法[3]。ところが、法の運用は機能不全を起こし、国家の枠組みに取り込まれて、矮小化が甚だしい。硬直化したシャリーアの規定が文化の規範として社会の変革を阻害する。また、パレスチナに対する中東諸国の対応が如実に示すように、ムスリムが大多数を占める国家でも、自国最優先の姿勢は変わらない。
ギリシャ・ローマからイスラームへと、あるいは、自民族優先のユダヤ教から、ひとり一人に寄り添おうとするキリスト教を経て、全人類に開かれているはずのイスラームへという宗教の進化がありながら、人間がこれに絡んで、進化を妨げる。天が与えた命をどれだけ無駄にすれば気が済むのか。
最後の日は、この世の中の人間たちのありようを映し出す鏡。
見るべきは最後の日がいつなのかではなく、そこに何が見えるのかの方。
縋るべきは、「この世の神たち」の気まぐれではなく、すべてを創造し、し続けている創造主であり、その存在に対して、ひとり一人が直接向き合えているという状況の中から生まれる被造物全体とのつながり。
そうであればこそ一人一人の人間に国家を超えた「取り分」がーー「神の似姿の主」たちがいようがいまいが、与えられて然るべきものとなる。
人権がないのではない。人間がいないのだ。この世に創造され、生まれたことに国境はない。すべての人々が享受できる天賦の人権論とは、各人が地球上のどこであってもそれぞれに今ここに生きていることに根差した人間観に基づくものであることを確認しておきたい。
「インシカーク章」によれば、まさかそんな清算が行なわれるなどつゆほども思っていなかった者たちも、否応なく、その場に立たされるという。その時には、自分が、実は人間であったということを思い出すはずだ。
アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
執筆後記
国連人権委員会からの、米国とイスラエルの離脱は、現代の人権論の視点から見れば、驚くに値しない事態である。むしろ離脱を非難し、引き止めようとする側に、彼らを説得するに足る有効な論理が欠如していることが明らかになった。その理由は、米国・イスラエルにとっても、国連人権委員会にとっても、人権がもはや「天賦」のものではないからだ。では、「天賦の人権」はどのような論理によって支えられるべきなのか。その問いをめぐる思考の手がかりとして本稿を執筆した。
脚注
[1] 「各人に各人のものを(Suum cuique)」、ギリシア時代から発見されていて、東ローマのユスチニアヌスの『ローマ法大全(Corpus Iuris Civilis)』には「正義」として収められている言葉でもある。同法典、第一部には、「守るべきは、各人それぞれが、正しく生き、打たれることがないということ (iuris praecepta sunt haec: honeste vivere, old rum non laedere, suum cuique tribuere)」(Inst. 1, 1, 3) とあり、ウルピアーヌスの説として「正義とは、万人にそれぞれのものを与えようとする確固たる恒久的な意思である ('Iustitia est constans et perpetua voluntas ius suum cuique tribuendi')」(「学説彙纂」1, 1, 10) が挙げられている。大全の執筆者であったトリボニアヌスは、大全の冒頭にこの語句を置いている。(Inst. 1, 1, 1)
[2] 嘉戸は「権力の理由はもはや社会を超越する主権的=至高の審級に求められるのではなく、社会に内在する諸運用規則に求められるのである。したがって、権力の問いはもはや主権的統治という言葉ではなく、効率的ガバナンスという言葉で提起されるのである権力論では、主権的統治に代わるものに位置付けられる」というジュピオの所見を引用する(嘉戸一将『主権論史』岩波書店、2019年、12頁)
[3] イスラーム法における「各人に各人のものを」は、次のハディースを根拠とする。
それは、自分自身の体調も、家族も顧みずに礼拝に勤しんでしまったスライマーンの「実にあなたの主はあなたに権利を持っている、あなた自身もあなたに権利を持っている、あなたの家族もあなたに権利を持っている。すべての権利の持ち主に彼の権利を与えよ」。」という言葉を聞いたムハンマド(彼の上に祈りと平安あれ)がその言葉について「スライマーンは正しいことを言う」という言葉でスライマーンを喜ばせたというムハンマドの発言による。
"إنَّ لِرَبِّكَ عَلَيْكَ حَقًّا، ولِنَفْسِكَ عَلَيْكَ حَقًّا، ولأَهْلِكَ عَلَيْكَ حَقًّا، فَأَعْطِ كُلَّ ذِي حَقٍّ حَقَّهُ". وقد أقره النبي صلى الله عليه وسلم على ذلك بقوله: [صدق سلمان].
このハディースでは、イスラームの人権が、信仰の部分、つまり内心の自由や、魂や心の状態、自分自身、家族など、すべての権利者にその権利を与えよと非常に広い範囲に及んでいることを示している。
タイトル画像:
Iraqi girl smiles Special thanks to Ms. Christiaan
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