クルアーンの中のグラデーション:《インシカーク章》16節をめぐって
この世が終わる前に
冒頭で、この世の終わりの情景を描いて見せてくれた「インシカーク章」(《聖典クルアーン》第84章)。「天空」は散り散りに切り裂かれ、大地は伸べられてひっくり返って中身が吐き出される。人間たちはそれでも自分のことに一生懸命でわき目も振らない。しかし、最後には審判があって、天国行きか火獄行きかが言い渡される。結末は雲泥の差。様々にやらかしたことについても、信じているいないにかかわらず、すべては記録されている。中には、そんな審判に立たされるなどとつゆほども思っていなかった者たちもいるが、決して逃れることはできない。アッラーはすべてをご覧になっているのだとして15節までを終える。この世の終わりの耐えがたい恐怖を植え付けて、この世の終わりの審判の真実を宣言した格好である[1]。
16節では、それまでを受けつつ、カサムが始まる。カサムとはアッラーが何かを引き合いに出して行なう誓言の形式である。ここで引き合いに出されているのが、日没時の赤。それに寝静まり返る夜、光り輝く満月が続く。前段のこの世の終わりが誰も見たことがなく想像を絶するものであるあることに比べれば、これら3つは、アラビア半島以外に暮らす者たちにとっても、イメージのできるアイテムばかりである。ここでは、これら3つの引き合いの最初《シャファク》についてみていこう。
「シャファク」とは
「天空」でも、「大地」でも、「人間」でも、「夜」でも、「月」でもなく「シャファク( الشفق )」。いったい何ものなのだろうか。アッラーズィー(ヒジュラ暦606年、西暦1209年歿)によれば、「シャファク」とは、語源的には「物の薄さ、繊細さ」を示すという。「シャファクの衣服」と言ったら、薄くてまとまりのないような布の服のこと。質の悪いものに対してこの語が用いられることもあるという。動詞の用法にも言及していて、「アシュファカ・アライヒ」と言ったら、「彼に対して心が薄く、柔らかくなる」ことだとし、「アッ=シャファカ( الشفقة )」とは、心の薄さ、心のやさしさ」を意味するという。
注釈学者たちの間では、この「シャファク」を「太陽が沈んだ後に地平線に残る光の名」であることが一致しているという[2]。アッラーズィーはこれに加えて、イブン・アッバースが、「シャファク」は、そのあとの「夜」との対比で理解されるべきであり、昼の光のことであるとしているとの言及も忘れていない。
光を引き合いに出す
その後も「リサーヌ・ル・アラブ」から現在のサーブーニーに至るまで、通説的見解は、日没後の地平線にのこる空の赤さなり、その光なのである。そのあとの引き合いが、皆が寝静まる「夜」であり、そこに動きはない。夜空には星満天の星が瞬いていようが、ここではそのことへの言及はない。「夜」の後に引き合いに出されるのがスーパームーンを思わせるような形容をされた「満月」であるが、ここにも色自体の変化に言及はない。光にかんして言えば、夜にせよ、月にせよ扱いは静止画的なのだ。
それらに比べた時、シャファクの特別に気づく。その西の空には、明らかに光の色の変化が伴うからだ。鮮やかな赤色や橙色が徐々に明度を落としてゆく。やがて紫がかった色や淡いピンクが現われ、光が消え深い青色が夜の黒色にその場を渡す最後の瞬間まで。そこには日没とともに壮大なグラデーションが繰り広げられる。それは、シャファカの語の持つ優しさや繊細さが心を包んでいく過程かもしれない。
そしてすべての生き物が寝床に帰る「夜」が支配し、気が付けば、満ちた「月」が煌々と照らす。インシカーク章冒頭のこの世の終わりの天変地異という舞台設定とのコントラストに、日常的な光景の有難さが心に沁みる。心に落ち着きが戻ってくる。
朝の光の競演
こうした光の織り成すグラデーションは、クルアーンの中に散見される。夜明け前に目を転じてみよう。そこには、「夜明け前の薄明かり(シフル)」から「黎明(ファジュル)」を経て、「スブフ」にかけて、黒から濃紺、紫、淡青、白へ変わっていく過程を見出すことができる。
まず、「シフル( السحر )」。聖典では、《وَبِالأَسْحَارِ هُمْ يَسْتَغْفِرُونَ》(「アッザーリヤート章」18節)。『リサーヌ・ル・アラブ』によれば、「夜明け前の薄暗がりで、光がかすかに増え始めるが、まだ明るさが支配的ではない時間帯」であるとされる。「人間の感覚が研ぎ澄まされる時間帯の象徴」としても引かれるという。
次が「ファジュル( الفجر )」。聖典には、ファジュルはカサムの引き合いに出されている。『リサーヌ・ル・アラブ』では、「夜明けの光がそれを裂き、黒い空が白み始める瞬間」であり、中でも「الفَجْرُ الصَّادِقُ (真の暁光)」は、空が白く広がる光であり、色のグラデーションが顕著にみられるともされる。
そして「ファラク( الفلق )」。闇を切り裂く射光であり、明るさは増していく。空全体が青みを帯び、朝が訪れる。「スブフ( الظهر )」である。そして、ついに太陽が地平線から昇る瞬間つまり、「シュルークッシャムス( شروق الشمس )」(日の出)を迎え、白の世界へ。その後、太陽が高く昇り始め、光が強まる日の出後から正午前までが「ドゥハー( الضحى )」となる。
色、いろいろ
聖典には他に、《ボクラタン・ワ・アスィーラー( بكرة وعصيلا )》(アル=アハザーブ章 33:42)という啓示も収められている。『リサーヌ・ル・アラブ』の解説を聞こう。「ボクラ( البكرة )」とは、「夜明け前の時間帯で東の空が赤みを帯びた後、青みが増していく時間」のこと。「アスィール( العصيل )」とは、「午後から日没直前までの時間帯で、太陽光が黄金色から赤へ移ろう時間」だという。この対比の中にも、朝焼けおよび夕焼けに伴うグラデーションが含意されている。こうしてみると、ここには、天空をキャンバスにした、輝度も明度も刻々と変化していく豊かな色彩の世界が広がっていることに気づく。
「色」のことをアラビア語で「ラウヌ」と言う。その語は単色としての色を指す言葉ではあるが、『リサーヌ・ル・アラブ』によれば、「多様な色の混合」や「色が徐々に変わる様」を含意すると言う。聖典では、複数形を伴って下されている。《وَمِنَ الْجِبَالِ جُدَدٌ بِيضٌ وَحُمْرٌ مُخْتَلِفٌ أَلْوَانُهَا》(「ファーティル章」35:27) 「山々を見れば、白や赤の様々な色の地層が見られる」。岩山の山肌にさえ、色彩の多様性を見る。
クルアーンに降された色彩の多様性は、そのまま、アッラーの創造と変化の無限の可能性を示している。
春はあけぼの
「シャファク」をはじめとする、聖典クルアーンから読み取ることのできる色彩の豊かさは、そのままアラビア語にも「グラデーションの言語」の側面があることの証左となろう。
アラビア語の文章の構造の特徴を説明するために、筆者は「ラー・イラーハ・イッラッラー」の文の形を紹介する。「ラー・イラーハ」で「神なんてものは一切存在しない」と全否定をしておいてから、「イッラー」という例外詞で一気にひっくり返して「アッラー」を出す。すると、「アッラーの存在が一挙に際立つ。こうした全体否定からの例外強調表現を多用する。「コントラストの言語」としてのアラビア語の真骨頂だ。文のレベルでも、用語のレベルでも「コントラスト」を際立たせる修辞が効果的に用いられるのだ。
「春はあけぼの」を「いとおかし」としてほのかな美しさを愛で、何事も決めつけない曖昧さをよしとする「グラデーション」の日本語。「天国か地獄か」「来世か現世か」を明確に区別する「コントラスト」のアラビア語。両者の対比の中でことさらに浮かび上がるアラビア語の「コントラスト」。それゆえその境界を移ろう「シャファク」のグラデーションがクルアーン自体の意味の深みを垣間見せてくれる。
こうして「シャファク」をはじめとする日の光を示すいくつもの言葉は、日没から夜明け前、日の出をへて日の光に至る光の実際のグラデーションを示し、聖典クルアーンに、そしてアラビア語自体にも「グラデーション言語」として性質があることを示していた。
夕焼けの光は徐々に闇へ、そして必ず朝の光へと変わっていくように、人の心もまた、絶望から希望へ、混沌から静謐へと移ろう。クルアーンにおける光の描写は、単なる自然現象ではなく、人の心の変化をも照らし出す。アラビア語の言葉とともにクルアーンの光は、静かにしかし確かに、生きる力の再生をやさしく導いているのではないか。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1] クルアーンの明文では「イザー( إذا)」(~した時)という接続詞を用いた表現になっていて、それは「いつ起こるのか」ではなく「そのとき何が起こるのか」を示している点については次の論考を参照のこと。
https://note.com/assalaam_action/n/ned1e3acb91bb
[2] 『リサーヌ・ル・アラブ』(著者イブン・マンズールは、ヒジュラ暦711年歿)の時点では、「薄さ、繊細さ」の意味は後退し、「シャファカ」の基本的な意味は、聖典にもある、夕暮れ時の空の赤み、すなわち「日没後の空に残る赤い光」のことと、他者に対する憐れみ、慈愛、思いやりのことの2つであるとしている。「シャファカ・アライヒ」で「彼に慈しみを抱く」という意味であるともしていて、現在の語義とほとんど重なっている。
付記
思えば、昨年のラマダーンでは、運動不足を気にして、真夜中に2日と空けずに走ってしまった。以来昼夜が逆転して、寝床に入るのがファジュルごろ。仕事が夕方からで、東に向かって出かけるため、夕焼けは見ないし、月光に見入ることもほとんどない。朝の光はドゥハーになってから浴びる。アッラーが用意してくれたグラデーション無視の生活。これではアラビア語のグラデーションへのアプローチも、自身の自律神経の調整もおぼつかない。今年のラマダーンは早寝早起きへのシフトを果たしたい。春はあけぼの。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
タイトル画像:
湖面にも「シャファク」(@相模原市緑区津久井湖三井大橋、筆者撮影)
