アッラーは本当に「神は人間をもっとも美しい姿に創造した」とおっしゃったのか?
「もっとも美しい姿」
何しろ美しい。「神は人間をもっとも美しい姿に創造した」だなんて!ムスリムになってから三十年以上がたつが、その間何度礼拝の際にこの聖句を唱えたであろうか。
لَقَدۡ خَلَقۡنَا ٱلۡإِنسَٰنَ فِيٓ أَحۡسَنِ تَقۡوِيمٖ (4)
「ラカド・ハラクナル・インサーナ・フィー・アフサニ・タクウィーム」
《聖典クルアーン》「無花果章」第四節
アラビア語で聖句自体は唱えていても、頭の中には、「もっとも美しい姿に」が自動的に置き換わって、脳裏に響き渡っていたように思う。
あるいは、大学で長きにわたって担当していた「宗教と現代社会」の講義の際にも、イスラームの人間観を紹介する際に「神は人間をもっとも美しい姿に創造した」としていたように思う。イスラームの研究を始めた当初から、お世話になっていた、日本ムスリム協会のこの対訳がとにかく沁みついていたということなのだ。
しかし、そうは言いつつも、違和感がなかったわけではない。なぜならば、「もっとも美しい姿に」をアラビア語に直せば、「في أجمل صورة」(フィー・アジュマリ・スーラティン)と、姿の外見の審美的な美しさを示す言葉になるはずだからだ。
アラビア語と日本語対訳の間
それにもかかわらず、アッラーは、「もっとも美しい」を「アジュマル」ではなく、「アフサン」と、「姿」を「スーラ」ではなく、「タクウィーム」とおっしゃっているのだ。
もちろん、クルアーンの別の場所には、「ジャミール」も「スーラ」も見出されるので、クルアーンの語彙の中にそれらがないのではない。つまり、アッラーは、この「無花果章」第四節においては、あえて「フィー・アフサニ・タクウィーム」としているのだ。
「フィー」は前置詞で「~に、~の中に」、「アフサニ」は、「良い」を意味する「ハサン」の卓越詞(最上級の形)であり、外見の美しさを指さないのだとすると、状態やあり方の良さや良好さを指すことになる。「タクウィーム」は、「カーマ(立つ、起きる)」という動詞が目的語をとるときの形「カウワマ」(まっすぐにする)の動名詞形にあたるのだ。
そこには、「アジュマル」(もっとも美しい)」もなければ、「スーラ」(姿)もない。にもかかわらず、「もっとも美しい姿に創造した」が刷り込まれてしまっている。何とかしなければ。
「創世記」では?
ところで「神が人間をもっとも美しい姿に創造した」という表現の出どころは、クルアーンばかりではない。旧約聖書の創世記の中に、
「神は言われた。『我々にかたどって、我々に似せて人を造ろう。…』
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
創世記1:26–27(新共同訳)
ヘブライ語では「בְּצֶלֶם אֱלֹהִים」(be-tzelem Elohim)=「神の像(イメージ)において」であり、そこには「神的特性の反映」としての「かたち(image)」と「自由意思や理性などの道徳的・霊的な性質」としての「似姿(likeness)」を併せ持つものとして創造されたと解される。
「もっとも美しい姿に創造した」で検索をかけてみると創世記のこの節が出てくる。つまり、創世記上にも「もっとも美しい姿に創造した」を読み取ることができるのである。しかし、上に見たように、創世記上にも「もっとも美しい」という言葉を見出すことはできないのだ。
「カワマ」(q-w-m)の言語空間
「もっとも美しい姿に」ではなかったのならば、アッラーのメッセージはいったい何だったのであろうか。アッラーは、アラブのムハンマドを彼の御使いとして、つまり、彼のメッセージの受け手そして人々への伝え手として選び、しかも彼の言語「明瞭なる」アラビア語で啓示を行なったのだ。つまり、いまさらながらではあるけれど、アッラーのメッセージは、アラビア語に戻って読むのが最良だということになる。
「タクウィーム( تقويم )」の語のもとをたどると、「カ・ワ・マ」(( q( ق ) - w( و ) - m( م ))という三語根にたどり着く。この三語根からなるシンプルかつ基本的な動詞が「カーマ ( قَامَ )」である。「立つ、起きる」。「タクウィーム」は、「カウワマ( قَوَّمَ )」の動名詞であることも指摘したとおりだが、「カウワマ」とは「まっすぐにする」であり、そのほかに「直立させる、平らにする、元の状態に戻す、形作る、整える、調整する、値段をつける、評価する」など。個人的には、「形作る」がいちばん使い慣れているが、注目すべきは、「直立させる」であろう。「タクウィーム」はその名詞形なのだから、「直立させること」。そうであるならば、動物の中で唯一、二足直立歩行を行なう人間に授けられたもっともすぐれた身体的な構成や仕組みの在り方と合致する。
直立という最良の構成
つまり、「タクウィーム」を語根にまでさかのぼって検討してみれば、そこに「直立させること」という意味が見えてくるのだ。直立し、二足歩行を行なうことによって人類にもたらされた恩恵は数えきれない。立って歩けるようになったことで、両手が自由になった。道具を使えるようになった。無知なることを教えてくれる筆も持てるようになった。脳が首の上に乗せられているため、大きく発達することにもつながった。
足元から離れた口は、餌を食べるためだけのものではない。舌も食べ、飲み込むためだけではなく、話すためにも発達した。
直立二足歩行は、もっともエネルギー効率がよく、長距離の移動を可能にした。どれもこれも、「直立」あっての事柄なのだ。
だからこそ、「アフサン」となる。「いちばんよい」という意味だ。こうした事柄を形容しようとすれば、「美しい」では、外見にとらわれすぎるし、かといって「高貴な」というのも「高徳な」というのも違う。たしかに「もっとも良い、最も良好」の「アフサン」である。
地上の代理人
神の似姿に創造されたのも、地上の代理人に任命されたのも、すべて直立二足歩行ができたからではなかろうか。とはいえ、そこは人間である。何しろ、不完全なのだ。「もっとも美しい姿に創造された」のではない、「とりあえず、地上の代理人を任せられるだけの形態には創造された」に過ぎないのだ。
地上の代理人とは、人間だけでも82億を数える万有の主の代理人だ。「カワマ」の派生語の一つに「カウム( قوم )」(民族、人々)がある。アラビア語ではナショナリズムをこの語の形容詞形をさらに名詞化して「カウミーヤ( قومية )」という。
自分の「カウム」を愛するあまりに、他の「カウム」に戦いを仕掛け、人も土地もほしいままにしようとする行為に全集中で「頭」を使っているようでは、とても、地上の代理人の名に値しない。
今日がその日
人間の意思は、十分に抑制をきかせておかないと、どうしても欲望とともに暴走してしまうのだ。だからこそ、直立二足歩行の人間たちが大地に額する祈りには偉大なる創造主に対する畏れと愛と帰依とが込められるのだ。
「立ち上がる」ことを「キヤーム( قيام )」という。これも「カワマ」からの派生語だ。「起床」から、義務の「履行」、会社等の「設立」、そして礼拝の前半部分の「立礼」もこの言葉。「キヤーム」あっての日常であるし、信仰でもある。そして「ヤウムルキヤーマ」、つまり「キヤーマ( قيامة )」(蘇生)の「ヤウム( يوم )」(日)。復活の日であり、最後の審判の日。正邪が秤にかけられて、来世での立ち上がる場所が決められるその日である。
自らの不徳と不義理と不完全を最終的に思い知らされるその日。だが、審判の日の兆候は毎日訪れている。頭もあれば舌もある。美しい姿になるかどうかはすべて自分次第。無花果とオリーブの息吹で始まった今日もきっとその日だ。さぁ、立ち上がって、知の筆を手に歩き出そう!アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
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タイトル画像:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci
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