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傷跡を残す努力:《聖典クルアーン》インシカーク章(1-6節)をめぐって

まず「天空」

星座章では、カサムの対象になっていた、「空」、あるいは「天」。数多の星々を抱く空、約束の日、さらに見るものとみられるものにかけて宣言されていたのが塹壕の徒たちの死であった。塹壕の徒の殲滅を宣言する際は、引き合いに出されるほど確かなはずの「空」。「インシカーク章」では、その空が割れる。誓いの引き合いも何もあったものではない。天空がひとりでに割れて、裂かれていく。「ひとりでに」と言えるのは、動詞の形から、シャッカが割る、裂くの他動詞であるのに対し、その第7形にあたる「インシャッカ」には、ひとりでにそうなるというニュアンスを示す語形だ。

とはいえ、創造主の創造の過程で生じている、この天空の張り裂け事象。ひとりでにそうなるなどと言うことは、生じえない。至高なる御方は続けて言う。《アズィナトリラッビハーハホッカット》(主の御命令を聞き従う(時))と。そうだ。天空は、聴く。天空にとっての主の言うことに耳を傾けるのだ。「アズィナ」の3つの文字の最初の二つをダンマで読めば「耳」のこと。天空は創造主の命令に耳を傾け、そして、それに真理があるとして、いや、そこに天の判断が介在する余地はないのだが、それに従う。これで、あたかも天空は自分からそうしたかのようにひび割れ裂かれ散り散り天変状態。 

次に「大地」

それに続けられているのが「大地」。天空は、散り散りに裂かれてしまったが、大地は、広げられてしまう。地表には山もあれば川もある、聳え立つ堅固な城塞だって街だってある。それらをのせている大地が、平らに伸ばされてしまうのだ。底面積が一挙に増えるのだから、山も、川も、建物もそのままでいられるわけがない。巨大地震が伴うことは必至で、それでも人は、何があったのだろうという余裕があるのだろうか。地震章が伝える事態よりさらに深刻なのかもしれない。

大地の変化はそれだけにとどまらない。腹の中にあるものを吐き出すというのだ。死体だ、隠された財宝だと注釈学者たちは言うが、大地から投げ出されるものと言えば、マグマであり、有毒ガスであり、火山灰などもありでしょ。それが、大地の一気の拡張と同時に行われるというのだから、「地異」のほうも軽く想像を超える。そしてこれらもまたすべて、大地が《アズィナトリラッビハーハホッカット》とその主の命令にしたがった帰結、つまり、アッラーの命令によるものなのである。 

そして「人間よ」と来る

天空と大地が、それがそうであることをやめてしまう異常事態に続くのが、「人間」である。天空も大地も主の命令に耳を傾けていたというのに、人間ときたらどうだ。主に呼びかけさせている。《ヤー・アイユハ=ル=インサーン》(人間よ、)と。人間の主は言う。《インナカ・カーディフン・イラー・ラッビカ・カドハン…》(実にあなたは、あなたの主に向かって刻苦を重ねている)。「カドフ」とは、「努力」ではあるが、それもかなり厳しめの努力である。「行ないに全力を尽くし、成果として痕跡を残すことである」と、アッラーズィーは言う。天変地異が起きているにもかかわらず、人間は、自分の主に向かって、痕跡を残そうとあくせくと働き続けているということなのか。

「イラー・ラッビカ」は、直訳すると、「あなたの主まで」となるが、「努力は死ぬまで続く」ということなのか「現世での努力が来世での主との面会につながる」ということなのかあるいは「あなたの行いは主につながっているという」ということなのか、解釈は分かれるという。

いずれにしても「やがてそれに対面」することになる。「それ」とは、逃れることのできない「主の裁き」、あるいは「あなたの努力の記録(キターブ)」と解される。 

天変地異の真意

地震章では、「大地にはいったい何があったのだろう」と、人間の側にも気づきがあった。しかし、インシカークでは、天空も大地も、たいへんなことになっているのにもかかわらず、それでも、人間は「主に会うため」(それが懲罰を含む清算のためであれ、自分自身の行為の記録であれ)に、激しい努力を続けているということになる。主に会うための努力を続けられるということは、彼には、意識もあれば、言葉もあるということだ。絶命はしないまでも、とっくに気絶してしまいそうな状況。あるいは、まったく生きていられないような状況にもかかわらず、努力し続けられているのだ。

つまり、誤解を恐れず言えば、それはそれ、これはこれなのだ。天空がバラバラになることは、観測ができていないだけで、起きていることなのかもしれないし、大地がひっくり返って、まさにこの世の終わりを思わせるような、大地震や大洪水は、現に起こっているし、起こりうるのだ。

ただ、だからと言って、現実問題として人類全体が滅亡してしまうのではない。たとえば、聖典を読み、理解し、自らの行動へメッセージを読み取る意識をむしろ掻き立てるのが、天変地異だ。 

「主」が何であっても

「人間」とはいったい誰のことであろうか?これには、人類全体を指すという見解と、特定の個人を指すという見解とがある。仮に、人類全体とした場合、そこには色々な人々が含まれる。「彼の主へ」と言ったときの「彼」の中には、信者もいれば、そうでない者たちもいる。ムスリムにあなたの主は何ですか?と聞けば「アッラー」だと即答を得られるかもしれないし、キリスト教徒にきけば「イエス」だとこれも即答を得られるであろう。だが、同じ質問をたとえば、日本人にしたならば、実に様々な「神」の名前が出てくることであろう。

最終的に自分の主に会うことになったときに、自分が主だと思っていたものは、現世限りの存在で、まさか、そこでお目にかかるだなどとはつゆほども思っていなかったアッラーに会うことになるかもしれない。しかし、こうした考えも、全人類がリアルに滅亡するその日の到来を前提にした話だ。

となると、主に向かって日々刻苦を重ね続けるという、プロティスタンティズムの勤勉さ以上の人間観もまた、足元から揺らぐことになりはしないか。その意味で、すでに大地の伸張拡大が始まっているのではないか。傷跡を残す努力も迷走してはいないか。人間は火獄の奴隷でも死の奴隷でも自分自身の奴隷でもない。万有の主の奴隷、つまり「人間」なのだが。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

 

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