見出し画像

北田直俊監督作品『彷徨う魂』(2021)

『彷徨う魂』が生まれた理由

5年前の、2021年に制作した映画『彷徨う魂』について、ずっと書こうと思いながらも、忙しさにかまけて書けずにいた。今日はようやく、その経緯をまとめてみたい。

きっかけは、2017年に山梨県・甲府市に住んでいた頃、当時の彼女と映画館「テアトル石和」(2018年2月28日閉館)で観た田尻裕司監督『愛しのノラ~幸せのめぐり逢い』(2017・82分)だった。
ストーリーは、大きな事件が起きるわけでもなく、ただ猫との日常が淡々と描かれる作品。途中、飼い猫が家出してしまうエピソードがあるが、最終的には戻ってきて、また日常が続いていく。

しかし、当時(2017年9月頃)、埼玉で起きた税理士だった50過ぎの男が起こした残虐極まりない動物虐待事件が社会を震撼させていた。

2017年事件当時のニュース映像から

鑑賞中、もしこの映画の猫が、あのような残虐な事件に巻き込まれていたらこんな風なのんびりした映画にはならないだろうな――そんな想像が頭をよぎり、作品の穏やかさとの対比が強烈に胸に残った。映画自体は本当に終始何も起こらずに終わるところが徹底してて、賛否はあるだろうが僕は好きな作品だ。

その数か月後、事件の判決が執行猶予付きで下された。猫を何十匹も卑屈に拷問を与えてクソ微笑んでいた悪魔に対してたった4年の執行猶予。ほぼ無罪と同じである。有り得ない判決だった。僕はその結果に強い失望を覚え、心底司法に対する信頼を全く無くした。裁判官も弁護士も、そして法曹界や立法府に携わる人間たちまでもが、一様にクソのような存在に思え、どうしようもない怒りを覚えた。 本来、法律というものは水の流れのように社会に合わせて変化し続けるべきなのに、彼らの発想は六法全書の暗記にとどまり、前例踏襲主義に縛られたまま思考が止まっているように感じた。

今の時代、むしろAIに任せた方が合理的で、税金の節約にもなるのではないかと思う。 そもそも大学の「法学部」という概念自体が時代に合っていないのではないか。丸暗記の法学ではなく、現行法のどこに抜け穴があるのか、被害者が報われない部分をどう改正すべきかを学ぶ「法改正学部」の方がよほど建設的だと感じる。

永山基準に象徴されるように、いまだに2人以上殺害しないと死刑にならない現状も、どう考えてもおかしいし間違っている。永山則夫が事件を起こしたのは、たしか僕が生まれた1968年だったはずだ。 小学校にもろくに通えなかった永山則夫が、結果的に築いてしまった“壁”のような基準を、数万人以上のエリート集団が60年かけても崩せないというのは、なんとも皮肉な話である。

1969年逮捕された永山則夫死刑囚

「動物はモノである」という民法の基準だって明治時代のまま。いつまで思考停止を続けるつもりなのか。 長年勉強を積み重ね、エリートとして法曹界に入った人々が、集団になると途端に前例主義に陥り、思考が硬直してしまう。そんな現実は、笑い話にもならない。前例主義に縛られたままでは救われない命がある。そんな矛盾や怒りが、創作の原動力になった。

映画『彷徨う魂』から

ドキュメンタリーから長編映画

そんな法曹界への怒りにも似た感情を抱えながら、動物虐待事件を扱うドキュメンタリー映画『動物愛護法』の制作に本腰を入れるため、当時の彼女とも別れ、山梨から東京へ移る決断をした。 なぜ別れなければならなかったのか。 それは、司法がまともに裁けない加害者に対し、僕自身が危うい衝動を起こしそうになっていたからだ。 司法が加害者の人権を尊重するというのなら、もし仮に僕が罪を犯したとしても同じように扱ってくれ――そんな極端な思いが頭をよぎるほど、当時は追い詰められていた。 その瀬戸際に立っていた自分を自覚したからこそ、彼女を巻き込ませないために距離を置くしかなかった。それほど彼女の事が好きだったし、本気だった。
だから、元税理士の動物虐待犯が僕に与えた損失は本当に大きい。 あのとき受けた様々な負債は、今でも全く消えてはいない。ある事がきっかけで、その負債は一瞬で利息ごと噴き返すかもしれない。
その時は、また淡々と記録映画の題材にするが。

4年の歳月をかけて制作した怒涛のドキュメンタリー映画『動物愛護法』

そのドキュメンタリー映画『動物愛護法』の中の一つのエピソードとして、『いとしのノラ』の猫がもし残虐な事件に巻き込まれていたら――という再現ドラマを20分ほど挿入する構想があった。

ちょうどその頃、文化庁の助成金の話が舞い込み、どうせなら再現ドラマ部分を一本の長編映画として制作することに決めた。知人の紹介で知り合った新進気鋭の脚本家・大春ハルオ氏にストーリーを説明し、2週間で脚本を仕上げてもらった。
完全に時間が無かった!何故なら、助成金の条件は「年内完成」。当時は9月上旬。残り3か月半しかなかった。 配役、スタッフ、機材調達、ロケハン探しと撮影交渉、香盤表作成、衣装合わせ、美術制作、小道具調達、そして最も苦労した子猫探し――怒涛の準備を経て、10月中旬から約10日間、新潟ロケで撮影を終えた。編集、試写会準備、決算書作成までを12月に滑り込ませ、2021年12月29日、たった4か月で『彷徨う魂』は完成した。

映画『彷徨う魂』より

制作費800万円。通常なら2年はかかる規模を、4か月で走り抜けた。

『いとしのノラ』へのオマージュ

『愛しのノラ』の「何も起こらない日常」。
『彷徨う魂』の前半でも、あえてその退屈さを意識した。もし時間と予算があれば、小津安二郎のような日常描写に挑戦したかったが無理に決まっている。
そして、中盤、主人公の小さな過ちから猫が逃げ、物語は一変する。 これは映画『愛しのノラ』に対する僕なりのオマージュであり、敬意の表現だった。(余談だが、『愛しのノラ』の田尻裕司監督にはお手紙と『彷徨う魂』のDVDを送ったのは言うまでもない。その後、メールでも何度かやり取りさせていただいた。いつか『愛しのノラ』と『彷徨う魂』の二本立て上映が企画出来たら良いのになぁと思う。30人くらい集まるなら都内の上映会場でやりたいくらいだ。)

そうそう言い忘れていたが、そもそも『愛しのノラ』自体が、帰ってこなくなった飼い猫への深い喪失感を綴った内田百閒の名作『ノラや』(昭和30年)からインスパイアされた作品だ。昭和30年といえば、動物福祉という概念もほとんど存在せず、街には捨て犬や捨て猫があふれ、地方では犬や猫がまだ食用にされることも珍しくなかった時代に「ペットロス」を真正面から描いた文学作品を残した内田百閒の感性と先見性は、驚かされる。まさしく先見の明というものだろう。

そして、その内田百閒は夏目漱石の弟子。近代文学の原点や出発点と位置付けられている漱石の『吾輩は猫である』。主人公が猫だという共通項だけでも泣けてくる。そんな奇しくも「猫の系譜」の中に、僕の作品が細い細い糸でつながっていると思うと、不思議な感慨がある。 いつか誰かが『彷徨う魂』からインスパイアされ、次の作品を生み出してくれたら嬉しい限りなのだが。

小説家・随筆家の内田百閒(1889~1971)

キャスティングの裏側

主演の杉本凌士さんには、当初は虐待犯役をお願いするつもりだった。しかし彼自身が動物好きで保護犬を飼っていたこともあり、役を打診した時の困惑した表情を今でも覚えている。その後、彼の舞台を観に行ったとき、前半の穏やかな日常、中盤の混乱、そして終盤の狂気――その振れ幅を演じられるのは彼しかいないと確信し、虐待犯から変更し、主人公役をお願いした。

妻役の山野はるみさんも素晴らしい役者さんで、僕の次作『佇むモンスター』でも母親役を見事に演じていただいた。日本映画界がこうした魅力的な俳優をもっと起用すべきだと心から思う。こうした魅力的な役者を積極的に起用しないのは大きな損失だと思う。 前述した法曹界の前例踏襲主義と同じで、安全第一の商業至上主義に頭が完全に思考停止に陥り、実験精神の欠片もない作品ばかりが量産されている。まぁ、そうした状況を許してしまうのは観客の質が一番の原因なのだが。

主人公夫婦役の杉本凌士さんと山野はるみさん

虐待犯役には、自身が監督・主演した映画『いる』で田辺映画祭の観客賞を受賞した礒部泰宏さんにお願いした。 やはり彼も猫の虐待犯という役柄には戸惑いを見せていたが、限られた時間と予算の中で見事に演じ切ってくれた。正直、猫の虐待犯なんて誰だって演じたくない役だと思う。僕だって、そんな役は気持ち悪くて絶対にやりたくない。

虐待犯役の礒部泰宏さん

最後に

『彷徨う魂』は、撮影時間もなく自由になる予算もなく連日徹夜で疲労困憊の現場で無理やり形にした作品だ。 それでも、あの時の自分がどうしても形にせざるを得なかった感情の行き場が刻まれている。
怒りも、迷いも、猫たちへの思いも、あの4ヶ月に詰め込んだ。
言葉にすればするほど薄まってしまうものがあるが、あの時、あの映画館で受け取ったものと、あの事件で失ったもの。 その両方がなければ、この作品は生まれなかった。

映画『彷徨う魂』より

ご紹介した作品は下記のAmazonプライム・ビデオやU-NEXTで視聴できます。

映画『愛しのノラ』Amazonプライム・ビデオで視聴する。

映画『愛しのノラ』U-NEXTで視聴する。


映画『彷徨う魂』Amazonプライム・ビデオで視聴する。

映画『彷徨う魂』U-NEXTで視聴する。


ドキュメンタリー映画『動物愛護法』Amazonプライム・ビデオで視聴する。

ドキュメンタリー映画『動物愛護法』U-NEXTで視聴する。