『ファイト・クラブ』は終わらない
『ファイト・クラブ』(1999)という映画がある。私の好きな映画のひとつだ。
不眠症に悩まされる主人公(僕)が、ひょんなことをきっかけに出会った傍若無人な男性タイラー・ダーデン。彼らが始めた秘密の「ファイト・クラブ」は徐々に僕の生活、そして街の様子を変えていく。
※本日のnoteは『ファイト・クラブ』をすでに見ていることを前提に書かれています。ネタバレは含みませんが、未視聴の方はご注意ください。※
果たして、あのラストシーンをもって彼の「ファイトクラブ」は終わりを迎えたのだろうか。彼は本当に「ちょっと奇妙な時期」を終えられたのだろうか。
2025年7月9日。筆者(以降、僕)は友人に勧められて地元の大学病院の精神科に通い始めた。診察を進める中で、強い疑いを指摘されてるのが「発達障害」と「双極性障害」だ。
詳しくは書かないが、この数カ月はいわゆる双極性障害における「混合状態」と呼ばれる状態で、簡単に言えば躁状態と抑うつ状態が重なり合ったような非常に不安定な時期だったらしい。
確かに当時の僕は、口癖のように「行けるところまで行く」と息巻き、自己否定感と自己肯定感を同時に抱えながら、何事に対しても興味がわかず、同時に様々な新しいことをしたくなる、そんな気分だった。今の状態が「最高」なのか「最低」なのか「最高かつ最低」なのか「最低かつ最高」なのか、分からなくなっていた。
その空回りの渦中で、たった3ヶ月の間に引っ越しと帰省、就職と退職を行う訳のわからない時期を過ごし、ついには大学病院の門を叩いたわけだ。
その時、僕は「ようやく僕のファイトクラブを終えられる」「これからは、“すごく奇妙な期間”を反省しながら徐々に日常に帰っていくんだ」。そう思っていた。
Trust me. Everything's gonna be fine. You met me at a very strange time in my life.(信じてほしい。これからはすべて良くなる。出会いのタイミングが悪かった。)
でも、蓋を開けてみると、そこで起こり始めたのは「躁転」。自覚できるほどにエネルギーレベルが上昇し、過活動、多弁、そして観念奔走に軽い誇張的思考。
なんだか懐かしい気もするこの感覚。そう。僕はこの感覚をこれまでも何度か繰り返してきた。
また、時期が過ぎれば突然、何事にも興味を示せなくなり、全てが色あせて、躁状態の敗戦処理をしつつ、早くあの状態に戻らねばと空回りをし混合状態に陥る。繰り返しのパターンだ。
僕のファイト・クラブは終わったんじゃないのか。
僕の好きな本に、メディアアーティスト・落合陽一、哲学者・清水高志、文筆家、キュレーター・上妻世海の鼎談本『脱近代宣言』がある。初めて手に取った高校3年生の頃は、きっと3割も理解できなかったが、繰り返し読むたびに新しい発見がある本だ。

中でも印象に残っているエピソードが、「終わりなき『トゥルーマン・ショー』」という話だ。
小さな島でセールスマンとして働くトゥルーマン。平々凡々な生活を送っていた彼の生活は実は全国放送で生中継されていた。彼の暮らす島、島で暮らす人々は彼以外全員が「セット」。作り物だった。それに気が付いたトゥルーマンは、島から抜け出しついには、巨大な舞台セットから抜け出し「本当の現実」へと扉を出ていく。
なぜトゥルーマンは、あの海の端で見つけた扉を出たとき「やったー!」と喜べたのか。そこも別の“虚構”の可能性があるではないか。僕たちの世界も『トゥルーマン・ショー』ではないとなぜ言い切れるのか。それが、上妻氏の問題提起だ。
僕の『ファイト・クラブ』は終わりを迎えたと思った。それも映画の段階より早く。つまり、プロジェクト・メイヘムを未遂のまま終わらせることができた。怖気づくことができた。そして、大学病院という新たな扉を叩いてみせた。
しかし、そこで待っていたのは難治性の気分障害である「双極性障害」という診断だった。(なんなら、2年前にコンサータを初めてもらった際の主治医も紹介状には“双極性障害を疑っていた”と記載していたらしい。じゃあ、なんでその時に言わなかったんだ。)
上妻 (※筆者注:『マトリックス 3』を指して)僕の解釈だと、虚構空間も現実空間も実は同じ現実空間だってことなんですよ。僕らの日常でもすでに、情報空間っていうのと現実空間っていうのが重なり合ってて、そのなかでリアリティを持っている空間が、実は現実何だって言うことを示唆的に表現している。そこがかなり面白いんです。
落合 みんな、カフェオレみたいな感じ(笑)。
上妻 そう、カフェオレになるんですよ。『マトリックス1』だとコーヒーと、牛乳が分かれてたんですよ。でも3になってくると、重なっている。
そう、僕の現実もカフェオレ的だった。決して、『ファイト・クラブ』の映画のように明確なエンディングがあるわけではない。何より、あの映画の「僕」だって、あれだけのことをしでかして、プロジェクト・メイヘムで実際に金融ビル群の爆破までをして、「その後」どのように「日常」を取り戻したんだろうか。
いや、きっと「日常」は取り戻すものではない。むしろ「制作」していくものなのだ。
はぁ、腐らず生きていくためには、どうやって充足すればいいのだろう。この終わりなき『ファイト・クラブ』を僕はこれからどう生きていこうか。
