唄うさん
わたしは彼の名を知りません。
知っていることは、
彼がわたしの家の前を歌いながら通り過ぎることだけ。
わたしは彼に『唄うさん』と名付けました。安直でしょう。
わたしが唄うさんに気づいたのは、
ちょうど去年の春でしょうか。
はっきりと覚えてはいませんが、
暖かい時期の深夜だった気がします。
家の道路に面した窓の外から、気持ちよさそうに歌う男性の大きな声が聞こえてきました。
決して上手いとはいえない、
THE素人のカラオケレベルの歌声です。
一瞬、ご近所の誰かが歌唱系の配信にでも目覚めたのかと危惧しました。
それなら騒音問題になりかねないぞ、と。
しかし歌声は徐々に遠ざかり、やがて全く聞こえなくなりました。
歌いながら通り過ぎた、そういうことですね。
安堵しました。騒音問題の心配はなさそうだ。
半年と少しの間で唄うさんについてわかったことは2つ。
①持ち歌はミセス、嵐、ミスチル、髭男。
②唄うさんはわたしの家の前を往復している。
①についてはすぐ気づきました。耳をちょこっとすませば歌詞でわかります。
②については驚きました。
唄うさんに気が付き、見送りならぬ耳送りしたのに約2時間後にまた来たんです。
その日だけ特別ツーステージだったのかと思っていたら、違いました。
わたしの家はゆるやかな坂に面しています。
唄うさんはその坂を登ってどこかへ向かい、坂を下ってどこかへ帰っていくんです。
確信した日は興奮しました。顔も知らないのに。
わたしは今、唄うさんを誰かに教えたくてたまりません。
だっておもしろいじゃないですか。
不定期で家の前を元気に歌いながら往復している存在がいるって。
いるかもしれないけど、なかなかめったにそばにいない存在。
座敷童子や宇宙人に近いけど、もう少し現実的な存在。
わたしは自慢したいんです。
「ほら、これが唄うさんだよ。本当にいたでしょう」って。
唄うさんの出没は不定期ですし、
当然面識もないので声もかけられません。
苦肉の策で今回こうして文章で残すことにしました。
本当は唄うさんの歌声をみなさんに聞いてほしいです。
そして共感してほしいんです。
音痴とイジれない絶妙な調子外れだと。
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