孤独に挑戦し続けた陸の孤島での4年間「与えられた環境の中で、いかに最大限の成果を見出せるか」 -競技者編②-
『自分のクロールに未来はない。
水中最速の"新たな速さ"を手に入れるため、
私は再び、ゼロからのスタートを選んだ。』
ザザー...
プールの水が排水溝へと流れ落ちる音・・・。
ゴーッ......
古びた機械とボイラーのうなり・・・。
この50メートルプールで、今日も私は独り。
私が動かなければ水面は綺麗な鏡面のようだった。
「よし、今日も頑張るか・・・」
自分にどこか無理やり言い聞かせる声と気合を入れための拍手が、妙に空々しく響く。
デジカメをプールサイドに設置し、右手にはぐるぐる巻きにくくり付けた防水のストップウォッチ。鹿屋体育大学3年生の春、私は今日も自分との対話を始めようとしていた。
ダークホースの誰にも見られない日々
国内屈指の競泳強豪校、国立で唯一の体育大学、鹿屋体育大学。アテネ五輪の金メダリスト・柴田亜衣さんをはじめ、数々のオリンピアンを輩出してきた伝統校。その輝かしい歴史の影で、私は誰にも気づかれることなく、ひっそりと泳いでいた。
フィンスイミング。この競技をしている人は、大学内はおろか、鹿児島県内で私ひとり。だから、誰も教えてくれる人はいない。誰も見てくれる人もいない。誰も褒めてくれる人も、叱ってくれる人もいない。
朝5時から始まる水泳部の練習。彼らが去った後の僅かな時間を狙って、私はプールに忍び込むように通った。専門学校を卒業してから、編入生として3年次から入学し、教職課程も並行して履修する私には、練習できる時間はわずかしかない。
それでも、泳がないわけにはいられなかった。
水面に映る自分の姿は、いつも少し歪んでみえる。まるで「これでいいの?」と問いかけてくるように。
動画で撮影した自分のフォームを、夜な夜な見返す。手首に巻いたストップウォッチは、ハッキリ言って泳ぎの邪魔だ。でも、それ以外にタイムを計る方法がない。ペースクロックは止まったまま、計測してくれる人もいない。
「もっとスピードが欲しい・・・」
「理想のフォームに近づきたい・・・」
「そもそも理想のフォームは正しいのか・・・?」
問いかけても、答えてくれる人はいない。
時には、モチベーションが地を這うように下がることもある。誰にも見られていない場所での努力に、どれほどの意味があるのだろう。そんな疑問が頭をもたげる瞬間もある。
でも、そんな時は決まって、ある妄想が私を奮い立たせる。
「東京に戻った時、みんなの予想を遥かに裏切るくらいパワーアップしてやる」
その光景を思い浮かべるだけで、不思議と力が湧いてくる。孤独な環境だからこそ、逆に「誰も知らない自分」を作り上げられる。そう思えてくる。まるでダークフォースのように。
時には、そんな私を見かねた同級生たちが、わざわざプールまで足を運んでくれる。動画を撮ってくれたり、タイムを計ってくれたり。時には一緒にプールに入ってくれたり。その温かさに、胸が熱くなる。彼らのおかげで細く、弱った芯を保つことができた。
新世界への無謀な跳躍
実は、こんな孤独な修行のような日々を選んだ背景には、ある覚悟があった。
高校3年の時、ビーフィンでアジア優勝という予想外の結果を残した。でも、その喜びの中に、ある種の諦めのような感情が混じっていた。
ビーフィンは、割愛すると簡単に言えば「足ひれをつけて泳ぐクロール」。つまり、大半は競泳の実力がそのまま結果を左右する。実際に世界では競泳のオリンピック選手がビーフィンで活躍している。いくらフィンが得意とはいえ、県予選すら通過できなかった競泳の実力では、いずれ限界が来る。それは目に見えていた。
そんな時、運命的な出会いがあった。
初めてモノフィンの選手たちの泳ぎを目にした時、息を呑んだ。
人間の限界に挑戦するような圧倒的なスピード。まるでイルカのように水を切り裂いていく優美な姿。これこそが、新しい可能性なのではないか—。
キラキラした憧れの目で見ている私に、先輩がモノフィンを貸してくれた。
速い。
2歳からスイミングに通い、17年間生きてきた中で、一度も体感したことのない水の感覚をいつものプールで感じた。
その瞬間、心の奥底で何かが大きく動いた。
けれど、その道のりは想像以上に過酷なものだった。
さっそくモノフィンを持参した最初の合宿で、中3の女子選手にも遠く及ばない自分がいた。今までの競泳・ビーフィンでの経験など、まったく通用しない。完全なるゼロからのスタート。でも、それが良かったのかもしれない。
これまでの経験も、実績も、何の意味も持たない世界。だからこそ、純粋に「上手くなりたい」という気持ちだけで、がむしゃらに練習に打ち込めた。
「モノフィンで日本代表になりたい」
県大会予選敗退スイマーが口にするには、あまりに無謀な夢。でも、その無謀さがまた、チャレンジャーには心地よかった。
夢は、時に現実になるということを知った日
東京で固めた地盤に鹿屋での泥臭い挑戦の日々を重ね️、順調に確実にその瞬間に近づいていた。
2010年5月、運命の日本選手権。
スタート台に立った瞬間、体が震えるのを感じた。これまでの孤独な修行、誰にも見られることのなかった努力の日々が、この瞬間のために存在したのだと思えた。
スタートのピストルが鳴る。
400mサーフィス。誰もが好レースを予想だにしなかったこの種目で、私は今、かつてない手応えを感じていた。
水を切る感覚が違う。まるで体が水と一体になったかのような感覚。ターンを重ねるごとに、静かな確信が芽生えていく。
「いける...」
最後の50m。両脚が鉛のように重い。でも、心の中で叫び続けた。
「ここで諦めたら、あの誰もいないプールでの日々がなかったことになる」
タッチ!
信じられない光景が目の前に広がっていた。電光掲示板に表示された「1」の文字。その瞬間、全身の力が緩んだようだった。
しかし、これは始まりに過ぎなかった。
同年11月、アジア選手権。初めての日本代表として臨む国際大会まで、あと5日というところで、運命は私に試練を突きつけてきた。
いつもより集中して行っていた最後の仕上げの調整練習中、違和感に気づく。
ふと何気なく見れば、なんと、フィンの根元が割れていた。
フィンの先端が割れるのならまだ修理できる。でも根元―。身体の力をフィンに伝える、最も重要な部分の破損は致命的だった。
「もう、終わりか...?」
絶望的な気持ちに襲われた時、たまたま東京から練習に来てくれていた先輩が駆けつけてくれた。ホームセンターで材料を探し、必死に応急処置をしてくれる。大阪のライバルの先輩までもが、私の足のサイズに合いそうなフィンを知人から集めて、特急便で送ってくれた。
なんて温かい人たちなのか。最終的には、一か八か、ここまで二人三脚で頑張ってきた相棒である、応急処置をした自分のフィンで挑戦することを決めた。
そして迎えた出発前日。久しぶりの実家での前泊で、次の試練が・・・息が苦しい。呼吸がしづらい。それは、まさかの喘息の発作だった。
「こんなにも悪いことが重なるものなのか...」
半べそをかきながら、先輩と話していた言葉を思い出していた。
「神様は超えられるものにしか試練を与えない」
その言葉を何度も反芻しながら、準備を進め、飛行機に乗り込んだ。
喘息の症状は次第に落ち着き、なんとか夢の舞台、台湾へ到着することができた。少し興奮気味の日本代表選手団。その中でも人一倍、興奮と緊張をしてつつも、レースを楽しみにしていたのは私だった。
しかし、運命の試練はまだ終わっていなかった。
大会前日の公式練習。いつも通りプールに入った瞬間、不思議な感覚が。
足首に激痛が走る。
フィンを履いて泳ぐたび、耐えられないほどの痛みが襲う。
普段なら2,000m以上泳ぐ前日練習を、わずか300mで切り上げざるを得なかった。
もはや笑えてきた。神様に愛されすぎている️。
そして迎えた運命の日。
8年ぶりの日本記録更新を狙う4×200mサーフィスリレー。
足の痛みは一向に治まらない。
ウォーミングアップもままならない。
大先輩3人との大切なリレー。迷惑はかけられない。
「足が砕けても、命を取られるわけじゃない」
「4人のこれまでの練習、時間、思いを無駄にはできない」
スタート台に立つ直前、もう一度、あの言葉を思い出していた。
「神様は超えられるものにしか試練を与えない」
スタートのピストルが鳴る。
痛みを超えて、限界を超えて、私は泳ぎ切った。
レースは不思議と痛みを感じなかった。これがアドレナリンというやつか。
結果は、見事、8年ぶりの日本新記録樹立!
長く止まっていたフィンスイミング日本中距離界の時計が、再び動き出した瞬間だった。
帰国後、練習を共にしてきた先輩たち、チームメイト、鹿児島の同級生たち、みんなが、まるで自分のことのように喜んでくれた。
この時の経験は、今でも私の中で特別な輝きを放っている。
どんな試練も、それを乗り越えられる者にしか与えられない。
最後まで諦めずに試行錯誤し、挑戦し続ければ、必ず道は開かれる。
そう信じられるようになったのは、この時の経験があったからかもしれない。
少しずつ、周囲の注目も集まるようになっていった。
でも、その注目が、私から大切なものを奪っていくことになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
「因果応報」、「自業自得」
気がつけば、私は「日本代表・関野義秀」という肩書きに溺れていた。
練習のタイムに「まぁ、これくらいでいいか」と妥協する自分。
記録が伸び悩んでも「でも、代表には残れるでしょ」と言い訳する自分。
かつての必死さは影を潜め、代わりに現れたのは、おぞましいほどの驕りだった。
その報いは、残酷なまでに容赦なくやってきた。
2013年5月、日本選手権。過去3年連続で代表の座を守り続けてきた私にとって、学生として臨む最後の日本選手権となった。
そんなキリの良い記念すべき大会で、なんと、惨めにも、3位に沈む。さらに前年の日本記録も破られ、代表の座も失った。
表彰台の3位に立った時、こみ上げてきたのは悔し涙ではなく、自分自身への嫌悪感だった。
さらに心をえぐられた閉会式、最後の試練が待っていた。
代表選手選考の発表。
代表を勝ち取った選手たちが、一人、また一人とプールサイドに呼ばれていく。
ひとりずつマイクを握り、彼らが意気込みを語るたび、会場は大きな拍手に包まれる。
その光景を、私は観客席の片隅から、ただ茫然と小さくなりながら眺めていた。
かつては自分も、あの場所で輝いていた。
数時間前までは、当たり前にそこにいるつもりでいた。
でも今は、誰も私の方など見ていない。
それもこれも、全て自分のおごりが招いた結果。自業自得でしかなかった️。
何をやってきて、何をやってこなかったのか。
それは自分が一番わかっていること。
この時ほど、自分が情けなく思えたことはなかった。
でも—。
ポケットからスマホを取り出し、プールサイドにカメラを向けた。
シャッターを切る指先が、微かに震えている。
「この自業自得の結果から、絶対に逃げない」
一列に並んだ、自分のいない日本代表選手団の写真を撮った私は、自戒の念を込めて、自分のスマホの待受画像に設定した。
おそらく普通の人には理解できない選択かもしれない。
でも、この写真こそが、弱い私を常に奮い立たせる唯一の武器だと思った。
自分の本気の「誘い方」
同年9月、スイスでのワールドカップ大会。
日本選手権での敗北から一夜明け、私は鹿児島に戻ったその日のうちに、最も過酷なバイクトレーニングで早速追い込み、ウエイトルームの床にのたうち回っていた。もう、迷いはなかった。
かつての自分を取り戻すため、いや、それ以上の自分になるため、原点に返ることを決意した。
「代表」という肩書きも、「記録保持者」という称号も、全て忘れる。
ただ、目の前の自分と向き合う。
それは、あの日々に戻るということ。
7月の世界選手権。代表メンバーたちは、ロシアの地でレースに臨んでいた。大学院生室で授業の合間、途切れ途切れの配信を見ながら、選手たちの記録を確認した。
「9月のスイスで、絶対に彼らを超えてみせる」
その想いは、もはや執念と呼ぶべきものだった。
毎日の練習で、忌々しい待受画像の写真と向き合う。
屈辱を、原動力に変えていく。
そして、ついに運命の日が訪れる。
ジュネーブでのワールドカップ本番。
スタート前、いつものルーティーンとともに深呼吸️をする。
自身で満ち溢れている️、わけではないが、あの時ほどの不安もなければ、あの時ほどの自信のなさではない。
結果は、鹿屋のプールを思い描きながら泳いだジュネーブのプール。
しっかりマイペースで力を出し切り、結果は見事、人生初となる国際大会でのベストタイム更新、日本新記録の奪還!
一緒にやってきた大好きな仲間たちからの歓喜の中で、不思議な感覚に包まれた。
これは、ただの記録更新以上の何かだった。
日本代表という肩書きは、努力の結果であって、目的ではない。
記録も、称号も、全ては通過点に過ぎない。
本当に大切なのは、理由や言い訳を探さず、ただひたすらに前を向いて泳ぎ続けること。
そう、これこそが、あの誰もいないプールで、汗で曇ったゴーグル越しに私が学んだ、最も大切な教訓だった。
時に挫折は、最高の教師となる。
慢心という名の落とし穴に落ちたからこそ、本当の強さを引き出すことができた。
人は、完璧な自分を目指すのではない。
立ち止まっても、また一歩を踏み出せる自分。
それこそが、本当の強さなのだと。
2014年3月、ついに大学院を修了。4月からは、東京での新生活が始まる。
そこから私の人生は、まだまだ思いもよらない展開を見せることになる—。
ということで、ここまで長きに渡り読んでくれてありがとうございます。
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またね〜
フィンスイミングスペシャリスト
足ひれ社長 関野 義秀

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