【ディズニー考察】ピノキオ:なぜ“愛”ではなく“いい子”を求めた?
小さい頃に一度だけ観た『ピノキオ』。
当時は仲間に誘われて悪いことをしたピノキオの自業自得物語だと思っていました。
自業自得の物語は観るのが苦手なので避けていました、が
この度勇気を持って改めて観てみました。
改めてしっかり観ると
悪い大人に騙される子どもになりたてのピノキオの可哀想なお話
でした。
そして無防備に社会へ飛び出すことの危険を教えてくれました。
詳しく書いていこうと思います。
れっつごー♪
あらすじ
<星に願いを>と共に、あの名作が永遠に。独り暮らしのゼペットは、木で作ったあやつり人形にピノキオと名付け、いつか本当の子供になるようにと星に願いをかけます。するとその晩、妖精が現れてピノキオに命を授けます。そして、“良心”ジミニー・クリケットに従って、勇敢で正直で思いやりがあれば、本物の子供になれると告げるのです。ところが、ピノキオは正直ジョンの巧みな誘惑に乗せられてしまい…
良心にコオロギは頼りなさすぎる
冒頭でブルー・フェアリーの手によって人間にしてもらったピノキオ。
みるからに木でできた人形であることを隠せていません。
木の人形だったので何も知りません。
何もです。
生物として生まれていないので、人間には睡眠が必要なことすら理解していません。
そんな子が良心なんてわかるはずがありません。
本当にブルー・フェアリーは意地悪なことを言いますね。
「良心に従って勇敢で正直で思いやりがあれば人間になれる」って…
ピノキオは
コイツナニイッテンダ
って白目剥きたくなったと思います。
何もわからないピノキオを見たブルー・フェアリーは
コオロギのジミニー・クリケットを良心に任命します。
コオロギって…
頼りがいがなさすぎます。
それに私は虫が嫌いなので、コオロギに近づかれたくありません。
実際、正直ジョンに騙されていることに気づいても、
コオロギだからなす術がありませんでした。
なぜ良心としてコオロギを設定したのでしょうか。
良心というのはコオロギみたいなものだから
というメッセージが込められていると思います。
生きていると良心ってときに嫌なものですよね。
自分のしたいことがあるのに邪魔してくるやつ…
私も良心の呵責に苦しんだことが何回もあります。
周りをブンブンと飛び回って払おうとしても離れてくれない…
まるで虫です。
そして良心の呵責に苦しむ際、
ちょっとした心の声から始まることが多いです。
ちょっと悪いことをしようしているときは聞こえません。
目の前の欲望の声が大きすぎるから。
しかし一人になって落ち着くと聞こえるのです。
「それって本当にいいの…?」
一度聞こえてくるとずっとその声が気になって仕方がありません。
虫がブンブン飛び回っている音みたいに
良心について日常の感覚から考えると、
まるで虫みたいな存在だな
と捉えることもできます。
だからピノキオの良心にはコオロギであるジミニー・クリケットが選ばれたのではないでしょうか。
おじいさんは世間を知らなすぎる
なんやかんやでピノキオがわが子になったゼペットさん。
次の日にはピノキオを学校に通わせようとします。
無理でしょ。
子どもの頃は何も疑いませんでした。
でも大人になった今ならわかる。
人間になった翌朝すぐに学校通いは無理がありすぎる。
だって何も知らない子ですよ?
自分がどうやって生きていて、世界のルールすらも知らない。
文字の読み書きなんてもってのほかです。
文字というか言葉という概念も知らないと思います。
ゼペットさんは絶対に子どもを育てたことがありません。
ていうか学校というものに期待しすぎです。
学校は何もかも教えてくれる場所ではありません。
家庭で生活の道理を教えてもらって、ある程度理解していることが大前提の場所です。
ゼペットさんは人間に興味を持たないで生きてきたんでしょうね。
人間に興味なかったのに突然興味を持って、何も知らないのにいきなり社会にぶち込もうとする。
現代でウケる表現を使ったら
ピノキオはゼペットさんの完全なるエゴで生まれた存在
です。
その観点からいうとピノキオは誕生の経緯から可哀想です。
しかしゼペットさんを責めたままで終わらすのは思慮不足だと思います。
ゼペットさんの事情についても考えてみましょう。
おそらくゼペットさんの周りにはいい人しかいなかったのではと思います。
そしてゼペットさんは外の世界に興味がありません。
きっと純粋な人なので、人類全てが善人であると信じているのでしょう。
正直ジョンのような人間がいることすら知らないはずです。
だとしても、おじいさんはもっとピノキオを過保護にするべきだったのではないでしょうか。
ピノキオはどうして嘘をついた?
どっからどうみても木の人形なのに動けるピノキオ。
見世物小屋に売られてしまいます。
小さい頃は「なんでコオロギのいうことを聞かないんだ!」
と憤慨していました。
大人になるとわかります。
あれは断れません。
大人でも断って逃げるのは難しいでしょう。
無垢な子どもならなおさらです。
見世物小屋の店主は黄金のダチョウだと思ったはずです。
それを示しているかの如く、ピノキオを鳥かごに閉じ込めて逃げないようにします。
見世物小屋での賞賛や自分へのチップで浮かれていたピノキオも正気に戻ります。
ジミニー・クリケットに助けてもらおうとしますが、それもうまくいきません。
ジミニー・クリケットが星に願ってブルー・フェアリーがやってきました。
ブルー・フェアリーに尋ねられたピノキオは嘘をつき、鼻が伸びてしまいます。
「一度嘘をつくとどんどん大きくなっていくのよ」
これは大人も心に刻んでおかなければいけませんね。
ここで一つ疑問が生まれます。
なぜピノキオは嘘をついたのでしょうか?
私はピノキオは嘘をつく必要なくない?と思いました。
行く途中で連れ去られたと言えば被害者だしお咎めなしだったのでは?
このピノキオの嘘は彼が人としての成長が見える1シーンなのです。
なぜかというと、
「いい子でいる」という約束を破った自分をピノキオ自身が恥じたからです。
「いい子」の右も左もわからない子が自分の行なった行動は「いい子」ではないと理解していた、と解釈できます。
そう考えると少しずつですが成長しているのがわかりますね。
身を持って嘘の恐ろしさを知ったピノキオはジミニ―・クリケットの言うことを聞くことを誓います。
極限状態でこそ見えるゼペットさんの献身
ゼペットさんがいるお家へ帰ろうとするピノキオ。
そう簡単にお家には帰れません。
もう一回稼ごうと思った正直ジョンにまた売られてしまうのです。
ピノキオも抵抗しましたが、大人には無力でした。
こういう大人いますよね。
ずっとずぅっと利用し続ける大人。
あるときは自尊心を満たすふりをして、
またあるときは恋愛感情を利用して、
どんどん搾取していくのは現代社会でもあります。
プレジャー・アイランドを決死の覚悟で脱出したピノキオ。
待っていたのは一枚の手紙だけでした。
「ゼペットさんはあなたを探しに外に出たらクジラに飲み込まれてしまいました」
まだ自分の中に罪悪感が存在しないピノキオは泣きもしませんでした。
しかし直感で
「ゼペットさんを助けに行かなければいけない」
と感じ、クジラのもとに行こうとします。
なんやかんやでゼペットさんと再会できたピノキオ。
ゼペットさんはもうここから脱出はできない、と絶望していました。
なんとかしてピノキオをクジラから脱出させようとします。
それをみたピノキオは一緒に脱出できる手立てを考えます。
何も知らない子どもなら自分が助かればOKなはずなのに、
ピノキオはそれを良しとしなかったのです。
自分だけは助けようとするゼペットさんを見て何を思ったのでしょうか?
罪悪感?信頼?
ピノキオにとっても初めての感情だったはずです。
だってピノキオのことを思いやってくれる他人なんて今まで存在しなかったのだから。
自分を思いやるゼペットさんを見て、
「この人を失ってはいけない」
と直感したのではないでしょうか。
だから2人で助かる方法を考えたのだと思います。
そして
「クジラにくしゃみをさせる」
という突拍子のない方法を思いつきます。
ゼペットさんはびっくりするも
「お前の言う通りにやってみよう」
と実行に移します。
ゼペットさんのこの反応はピノキオにとって安心するものだったのではないでしょうか。
悪い大人に利用され続け、期待に応えられていないことを思い知らされたピノキオはきっと深く傷ついていたはずです。
だから最後ゼペットさんが息をしていないのを知ったときに、
「ゼペットさんを助けて」
とブルー・フェアリーにお願いしたのかもしれません。
そこにはもうジミニ―・クリケットの助言は必要ありませんでした。
今までにない極限状態におけるゼペットさんの献身はピノキオを大きく成長させることになりました。
おわりに
ピノキオの考察いかがだったでしょうか…?
ここまで書いていて疑問に思ったことがあります。
なぜブルー・フェアリーは「よい子になれば本物の人間にしてあげる」といったのでしょうか?
正直で勇敢で思いやりのある子、これがよい子の定義でした。
私はそのような子は愛に溢れている子なのでは?と感じてしまいます。
今回ディズニーはどうして大好きな「愛」を使わなかったのでしょうか?
どう考えても不思議です。
だって最後ピノキオを正直で勇敢で思いやりのある子にしたのはゼペットさんの献身に心打たれたからです。
じゃあゼペットさんはどうして献身的だったのか。
ピノキオに愛があったからのはずです。
でも今回、「愛」という言葉が使われませんでした。
きっとなにか考えがあるはずです。
ディズニー作品の主人公は大前提良心をもっています。
そうしないと性格良くないですからね。
愛は良心の後に生まれるものである、という考えがあるのかも…
そう考えるとヴィランズに愛がないのもうなずけますね。
あの人たちに良心なんて存在しませんから。
もしかしたら、
「愛」は、誰かに与えられるのを待つものではなく、自分の中の「小さな声」に従って行動した結果、手に入るものだということ
ということを伝えたかったのかもしれません。
物語の最後、ピノキオは力尽き、一度は命を落としたかのように動かなくなります。
しかし、その瞬間に彼は本物の人間へと生まれ変わりました。
それはずっとずっと小さかったはずの自分の心の声を信じ抜き、命を懸けて行動したからです。
良心という名の「外付けのコオロギ」に頼る必要がなくなったとき
周りの「大きな声」にかき消されていた「小さな声」が、自分自身の意志として響き渡ったとき
そのとき初めて、彼は「愛」を知る人間になれたのではないでしょうか。
ピノキオは「愛」という言葉を使わずに愛について描いた作品であるとも解釈できそうです。
ここまで読んでくれてありがとうございました♪
