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「嫉妬を捨てろ」と言う人が、嫉妬に囚われているように見える時

 経済格差について、非常に強い主張の記事を読みました。

 内容をざっくりまとめると、こういうことだと思います。

 経済格差の問題は、本質的には貧困そのものではなく、他人と自分を比較してしまう人間の嫉妬心の問題である。
 金持ちを見て「ずるい」と思うから苦しくなる。
 だから、隣の芝生を見なければいい。
 他人と比較しなければいい。
 格差是正など不要であり、本当に救うべきなのは絶対的貧困に苦しむ人たちである。

 この主張の一部には、たしかに納得できるところがあります。

 SNSを見て、他人の成功、収入、結婚、家族、旅行、ブランド品、華やかな生活を見続ければ、誰でも多少は心が乱れます。

 自分の生活は何も変わっていないのに、他人の暮らしを見た瞬間に、自分だけが惨めに思えてくる。これは確かにあるでしょう。

 人間は比較する生き物です。上を見ればきりがありません。
 自分より稼いでいる人、自分より恵まれている人、自分より人気がある人、自分より若くて綺麗な人、自分より家庭に恵まれている人。

 そんなものを毎日見続けていれば、精神衛生的に良いわけがありません。

 そういう意味で、

「嫉妬でわざわざ自分にストレスをかけるのはやめた方がいい」
「不毛な比較を減らした方が生活は良くなる」
「SNSから距離を取った方が楽になる」

という提案として読むなら、私はかなり妥当だと思いました。

 ただし、私が大きな違和感を覚えたのは、そこから先です。

嫉妬の問題と、格差の問題は分けた方がいい

 この記事は、個人の心理の問題と、社会構造の問題をかなり強引に一つにまとめているように見えました。

 たしかに、嫉妬は人を苦しめます。
 他人と比較しすぎると、自分の人生が見えなくなります。それはその通りです。

 しかし、「格差問題はただの嫉妬である」「相対的貧困はまやかしである」「格差是正は不要である」とまで言い切るのは、さすがに乱暴だと思います。

 低所得や不安定雇用の問題は、単なる気分の問題ではありません。

・家賃が払えるか。
・病院に行けるか。
・子どもに教育を受けさせられるか。
・安心して老後を迎えられるか。
・病気になった時に生活が破綻しないか。
・地域や人間関係から孤立しないか。

 こうした問題は、単なる「隣の芝生が青く見える」だけでは片づけられません。

 「金持ちが羨ましい」という感情と、「生活が不安定で、将来の見通しが立たない」という現実は、分けて考える必要があります。

 ここを一緒くたにしてしまうと、低所得者や不安定な立場にある人の困難まで、すべて「嫉妬」「甘え」「未熟さ」に回収されてしまいます。
 それはかなり危ういと思います。

「嫉妬に囚われるな」と言う本人が、嫉妬に囚われていないか

 私が一番引っかかったのは、筆者自身の立ち位置です。
 そのプロフィールからは、かなり過酷な人生を歩んできた人という印象を受けます。

 ある意味では、修行僧のような演出にも見えます。
「私はこれだけ苦しんできた」
「それでも私は社会に甘えずに生きている」
「だから、お前たちも甘えるな」

 そんな空気を感じました。

 もちろん、苦しい経験をしてきた人が、社会に対して意見を述べること自体は悪いことではありません。
 むしろ、経験に根差した発信には重みがあります。

 ただ、この記事を読んでいて私が感じたのは、「嫉妬に囚われるな」と言っている本人が、別種の嫉妬や怒りに囚われているのではないかということでした。

 表向きには、金持ちに嫉妬する貧乏人を批判している。しかし、文面の奥には、

「俺が苦しんでいるのに、お前らが苦しまないのはおかしいだろ」
「俺は救われなかったのに、お前らだけ制度に救われようとするな」
「俺は耐えてきたのに、お前らは被害者面をするな」

という怒りがにじんでいるように見えました。

 これは、金持ちへの嫉妬とは少し違います。

 むしろ、「自分より救われようとしている弱者への嫉妬」
「自分より甘えられる立場にいる人への嫉妬」
「自分の苦しみが報われなかったことへの怒り」に近いのではないかと思いました。

 つまり、これは単なる自己責任論ではありません。
 傷ついた弱者が、別の弱者に向かって、「お前だけ助かろうとするな」
と言っているような構図にも見えます。

苦しみマウントという構造

 私はこの記事から、ある種の「苦しみマウント」を感じました。

 少し冗談めかして言えば、メイウェザーの有名な言葉をねじったような感じです。

お前らが休んでいる時、俺は苦しんでいる。
お前らが寝ている時、俺は苦しんでいる。
お前らが苦しんでいる時は、当然俺も苦しんでいる。

 もはや努力論ではなく、苦しみの無限ループです。

 本来、苦しみは人に優しくなるための経験にもなり得ます。
 自分が苦しんだからこそ、同じように苦しむ人を少しでも減らしたい。
そう考える人もいます。

 一方で、苦しみがこじれると、逆方向に行くこともあります。

・自分が苦しんだのだから、お前も苦しめ。
・自分が助けられなかったのだから、お前も助けられるな。
・自分が耐えたのだから、お前も耐えろ。

 こうなると、苦しみは知恵ではなく、呪いになります。
 そして、この記事には少しその匂いを感じました。

嫉妬はそんなに簡単に切り捨てられる感情ではない

 もう一つ、私が浅いと感じたのは、嫉妬という感情の扱い方です。
 筆者は、嫉妬をかなり単純に扱っています。

嫉妬はくだらない。
嫉妬は未熟である。
嫉妬を捨てればいい。
隣の芝生を見なければいい。

 もちろん、それができれば苦労はありません。
 しかし、嫉妬という感情は、古今東西、人間にとって非常に扱いが難しいテーマでした。

 文学、映画、漫画、神話、宗教、歴史。あらゆる領域で、嫉妬は人間を動かし、狂わせ、争いを生んできました。

 恋愛、兄弟間、才能、地位、若さ、承認、救われる人への嫉妬。

 嫉妬は単なる「馬鹿な人間の感情」ではありません。
 もっと根深く、人間の自己価値や承認欲求、喪失感、不公平感、自尊心と絡み合った感情です。

 だからこそ、嫉妬を扱うには慎重さが必要です。

 「嫉妬するな」「比較するな」「以上、解決」
という白黒一刀両断では、むしろ人間理解としては浅はかに見えてしまいます。

 嫉妬を否定するだけでは、嫉妬は消えません。
 むしろ、否定された嫉妬は別の形で噴き出します。

 今回の記事も、まさにそれに近いのではないかと思いました。

断定的な文章は、かえって説得力を失う

 私は記事全体を読んでいて、AIを使って構成しているのではないかとも感じました。
 もちろん、AIを使って文章を書くこと自体は悪いことではないと思います。
 私自身も、文章の作成にAIを利用しています。

 問題は、断定の強さです。

「くだらない」「馬鹿」「まやかし」「社会問題ではない」「不要」

 こうした言葉が続くと、確かにインパクトはあります。
 SNSでは伸びやすいでしょう。反発も共感も集まりやすいと思います。

 ただ、強い言葉は、使い方を間違えると説得力を失います。

 特に社会問題は、心理、経済、制度、家族、教育、雇用、地域、健康などが複雑に絡み合っています。

 それを一つの感情だけで説明し切ろうとすると、読んでいる側は、「いや、そんなに単純じゃないでしょう」と感じます。

 断定が多い文章は、一見すると強く見えます。
 しかし、洞察しようとする人ほど、その単純化に違和感を覚えます。

 切れ味の良い包丁も、雑に振り回せば料理ではなく事故になります。

煽り記事としての質

 もう一つ気になったのは、この記事がマネタイズや注目獲得の導線として設計されている可能性です。

 格差問題。氷河期世代。弱者男性。自己責任論。嫉妬。貧乏人批判。

 これらは、SNSでは非常に燃えやすいテーマです。
 しかも、筆者自身が過酷なプロフィールを掲げながら、弱者側の不満を叩く。これはかなり注目を集めやすい構図なはずです。

 強者が弱者を叩けば、ただの冷酷な自己責任論に見えます。
 しかし、弱者を名乗る人が弱者を叩くと、妙な説得力が生まれることがあります。

 「同じ弱者の俺が言っているんだから、これは甘えではない」という形になるからです。
 ただし、そこには危うさもあります。

 自分の苦しみを根拠に、他人の苦しみを無効化する。
 自分の不幸を武器に、他人の救済を否定する。
 これは、かなりねじれた構造です。

 もちろん、筆者が意図的にやっているかどうかは不明です。
 ただ、結果としては、かなり煽り気味で、注目を集めやすい文章になっていると感じました。

嫉妬は政策の根拠にならない

 私の結論は、こうです。
 嫉妬を政策の根拠にしてはいけない。これはその通りです。

「あいつが金持ちだから腹が立つ」
「あいつを引きずり下ろしたい」
「成功している人を罰したい」

 こうした感情をそのまま社会制度にしてしまえば、それは健全ではありません。

 しかし一方で、嫉妬が混ざっているからといって、低所得、不安定雇用、教育格差、医療アクセス、社会的孤立、老後不安などの問題まで無効化してはいけない。ここも同じくらい大事です。

 人間の不満には、たいてい感情が混ざっています。
 怒りも、嫉妬も、悔しさも、被害感も混ざっています。

 しかし、感情が混ざっているからといって、その背後にある現実の問題が存在しないことにはなりません。

 大事なのは、嫉妬として処理すべき部分と、社会問題として扱うべき部分を、きちんと分けることです。

嫉妬を叩くことで、自分の嫉妬を処理していないか

 今回の記事を読んで、私はこう感じました。

 これは「嫉妬を捨てよう」という文章であると同時に、嫉妬を叩くことで、自分の中にある別の嫉妬や怒りを処理している文章なのではないか。

 金持ちに嫉妬する人を批判しながら、自分より救われようとする人に嫉妬している。

 格差是正を求める人を馬鹿にしながら、自分が救われなかったことへの怒りをぶつけている。

 被害者意識を批判しながら、自分自身もまた、別の形の被害者意識を抱えている。

 そういうねじれを感じました。

 もちろん、嫉妬から距離を取ることは大切です。
 他人と比べすぎず、自分の生活に集中することも大切です。
 SNSを閉じるだけで、かなり楽になる人もいるでしょう。

 ただ、それは個人の生活改善の話です。

 そこから一気に、「だから格差是正は不要」「相対的貧困はまやかし」「貧乏人の嫉妬に社会が付き合う必要はない」と結論づけるのは、やはり飛躍が大きいと思います。

 嫉妬は厄介な感情です。
 だからこそ、雑に叩くだけでは扱えません。

 そして、他人の嫉妬を笑う時ほど、自分自身の嫉妬には気づきにくい。
 今回の記事を読んで、私はそのことを強く感じました。

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