「ルーブリック評価は有罪か?学」——疑似裁判劇から見える、“測ること”の限界と可能性 【コラム】思好の科楽(その92)
🧠 このコラムで学べる、3つのこと
ルーブリック評価における二項対立(管理 vs 創造)の構造的原因と限
→表面の賛否ではなく、「何がずれているのか?」を因数分解の視点から理解できる。評価を再設計するための統合的モデルの考え方
→観点・尺度・主体・価値の“開かれ方”をコントロールする設計思考を学べる。評価とは「問い」であり、「対話の土台」になり得るという哲学的転回
→評価されることへの不安/評価することの傲慢さ——その両方を引き受けた「第三の姿勢」を探る視点。
🪞序章|なぜ私たちは“評価”にモヤモヤするのか?
——点数じゃない。正解・不正解でもない。
でも、なんか引っかかる。なんか、苦しい。

「で、何点だったの?」「結局、誰が一番うまくやったの?」
学校でも、就活でも、毎日のように「評価される」ことの中で、私たちは暮らしている。
でもその中で、いつもどこかに小さな違和感が残ってないだろうか?
それはきっと、
見られているけど、ちゃんとは見てもらえていない感じ。
数値やレベルで全部を決められてしまう窮屈さ。
🔍「見える」評価が、見えなくしているもの
たとえば、ルーブリック評価。
「観点」と「段階」で成果を整理し、できるだけフェアに、分かりやすく評価しようという方法だ。
表現力:レベル3
構成:レベル4
独創性:レベル2
……なるほど、見やすくはなった。けれど、それで 本当にその人の良さが伝わっているのだろうか?
「整ってない構成だったけど、伝わるものがあった文章」や、
「“独創性は低い”とされたけど、本人が全力で書いたレポート」には、
数字では測れない何かが、ちゃんとあるはず。
ルーブリックが悪いわけじゃない。
でも、“見える評価” が、何か大事なものを見えなくしてしまうこともあるのかもしれない。
💬モヤモヤの正体は、「構造のズレ」にある
このコラムでは、ルーブリック評価に賛成する人の声も、反対する人の声も、どちらの視点も大切にしながら進めていきたい。
そのうえで、「評価ってそもそも何を大切にしているのか?」を一緒に見つめ直したいと思っている。
評価への違和感は、意見のぶつかり合いではなく、前提のすれ違いかもしれない。
ならば、その「構造」を丁寧にほどいていけば、もっと深く、もっと納得できる形が見えてくるのではないだろうか。
🧭このコラムで問いたいこと
ルーブリック評価は、学びを助ける道具なのか?
それとも、自由を狭めてしまう枠なのか?
この問いを考える中で、今回、ルーブリック評価の是非を疑似裁判風に扱い、評価される側=被告人 になってみることにする。
そこから見えてきたものを、因数分解したり、組み立て直したりしながら、もう一度「評価」を考えていきたい。
📜第1幕|ルーブリック評価裁判、開廷
——私は今、裁かれようとしている。
「型にはめる教師」として——。(以下、フィクション)
高校の会議室。
今日はいつもと違って、ちょっと緊張した空気が流れている。
机の上には「検察」「弁護」「審査委員」の札。
その真ん中に、私は呼ばれていた。
理由はひとつ——ルーブリック評価を授業に導入したこと。
「では、開廷します。テーマは “ルーブリック評価は教育にとって良かったのかどうか” 。
それぞれの立場から意見を出し合い、考えていきましょう。」
これは模擬裁判。あくまで話し合いの形式だ。
だけど、私は妙にそわそわしていた。
評価する側だった自分が、今は評価される側に立たされている。
こんなにも落ち着かないものなのか——。
🚨 検察側の主張:「それは創造性を殺す、透明な檻です」
まず話し始めたのは、美術の大賀先生(40代)。
柔らかい口調なのに、その言葉には棘があった。
「ルーブリックって、わかりやすいようで、逆に生徒たちの表現を縛ってしまうんです。
美術の授業で生徒にこう聞かれます。
『どう描けばレベル4をもらえるんですか?』って。
それって、創造性じゃなくて、正解探しになってるってことですよね。」
次に口を開いたのは、生徒会長の柚月さん(高校3年生)。
ノートパソコンを閉じて、静かに言った。
「ルーブリックがあると、何を見られているかが分かる。
でもそのうち、評価のためにやるようになってくるんです。
“自分の考え” を表現するんじゃなくて、
“高評価を当てに行く” ような感覚。
本当はもっと自由に考えたいのに。」
私はその言葉に、ドキッとした。
授業中、私が配ったルーブリック表。
それは「考える道しるべ――ガイドライン」のつもりだった。
でも、生徒から見れば、「ここからはみ出さないように」という
”枠” だったのかもしれない。
🛡 弁護側の反論:「ルーブリックは“対話の言葉”です」
続いて立ったのは、国語の深町先生(50代)。
手帳を開いて、丁寧に話し始めた。
「たしかに、型にはまることへの心配はわかります。
でも、何を書けばいいか分からない生徒にとって、
ルーブリックは “入り口” なんです。
私はいつも言います。
“評価のために書くんじゃない。
あなたの言葉で書いてごらん” って。」
次に発言したのは、教育心理の研究者・仁科さん(30代)。
少し熱を帯びた声で、こう続けました。
「ルーブリックの本当の役割って、“できた/できない” を決めることじゃなくて、
“今どこまで来ていて、次にどこへ向かうか” を見えるようにすることなんです。
だから、生徒は “評価される側” じゃなくて、
“評価を使って学んでいく側” であるべきなんです。」
⚖ 被告人としての私の沈黙
言葉の応酬が一段落し、私の前に1枚の紙が置かれていた。
——あのとき私が作った、初めてのルーブリック。
「論理性」「構成」「独自性」「表現力」の4つの観点。4段階評価。
あのときは、「これがフェアなやり方だ」と思っていた。
でも今、その紙を見ながら、自分に問いかけている。
あの評価は、生徒の学びを支えていたのか?
それとも、知らないうちに、可能性を縛ってしまっていたのか?
そして——私は「評価」という行為を、ちゃんと理解していたのか?
🎭 休廷:評決は、まだ出ない
「今日の協議はここまでとします。評決は、また次回に。」
会議室は、また元の静かな空間に戻っていく。
それぞれが席を立ちながら、言い切れなかった何かを胸に残していた。
私は一人、その場に残り、ルーブリックの紙をじっと見つめていた。
——これは、評価表じゃなかったのかもしれない。
本当は、「問い直し表」だったんじゃないか。
📊第2幕|対立の背後にある “構造因子” を因数分解する
——評価の話って、実は “正しい/正しくない” の問題じゃないのかもしれない。
模擬裁判が終わったあと、私は会議室のホワイトボードをなんとなく眺めていた。
誰かが書いたまま、消されずに残っていた言葉が目に入る。
「評価とは、誰の、何を、どうやって、なぜ、測るか」
——ああ、そうか。
さっきの議論って、どっちが正しいかじゃなくて、前提が違っただけなんじゃないか?
それがうまくかみ合わずに、モヤモヤになっていたんじゃないか?
そんなふうに考え始めた私は、「評価って、どういう構造でできてるんだろう?」と思い、ある式を書いてみた。
🧩1|ルーブリック評価を “分解” してみる
評価って、1つのことをしてるように見えて、実は5つの選択の組み合わせでできている。
だから私はこう考えた:
$${評価(RE)= P × C × S × A × V}$$
それぞれの記号の意味はこう:
$${P}$$:目的(Purpose)
→ なんのために評価するのか?(支援?選抜?振り返り?)$${C}$$:観点(Criteria)
→ 何を見て判断するのか?(論理?表現?構成?)$${S}$$:尺度(Scale)
→ どうやって段階をつけるのか?(数値?言葉?レベル?)$${A}$$:主体(Agency)
→ 誰が評価するのか?(教師?本人?仲間?外部?)$${V}$$:価値観(Values)
→ 何が “よい” とされるのか?(公平?自由?独自性?)
この5つのうち、どれか1つでもズレていたら、評価はうまくいかない。
逆に、この構造が共有できれば、評価はもっと納得できるものになる。
🧠たとえば、ズレが起きるとき
観点($${C}$$)は良くても、尺度($${S}$$)が雑だと、うまく伝わらない
目的($${P}$$)と主体($${A}$$)が食い違うと、評価の意味がズレてしまう
価値観($${V}$$)が暗黙のうちに偏っていると、評価がしっくりこない
つまり、評価がモヤモヤするのは、「善し悪し」じゃなくて「構造のすれ違い」かもしれない。
🎯 5つの因子をもう少し詳しく
① 目的($${P}$$)
評価は、なんのためにする?
肯定派:学びを支えるため(診断、振り返り)
否定派:順位づけや管理になっていないか疑っている
② 観点($${C}$$)
何を見て判断する?
肯定派:論理性や構成などを重視
否定派:創造性や偶発的な魅力も大事にしたい
③ 尺度($${S}$$)
どうやって段階づける?
肯定派:わかりやすいスケールが助けになる
否定派:段階づけが自由を奪う気がする
④ 主体($${A}$$)
誰が評価する?
肯定派:教師と生徒が一緒に評価を共有
否定派:結局、教師の一方的なものになりがち
⑤ 価値観($${V}$$)
何が「よい」なのか?
肯定派:再現性やわかりやすさ
否定派:独自性や過程の尊重
🧠2|対立じゃなくて、構造のズレだった?
美術の大賀先生は、「創造性が測れない」と言っていた。
それは観点($${C}$$)のすれ違い。
柚月さんの「やらされ感」は、尺度($${S}$$)と価値観($${V}$$)のズレ。
対立しているようでいて、実は「見ている部分」が違っただけかもしれない。
🏗3|分解すれば、対話ができる
「ルーブリックは良いか悪いか」っていう議論だと、意見がぶつかるだけ。
でも、「何を目的に?」「誰のために?」「どうやって評価する?」って分けて考えれば、話がかみ合うようになる。
それぞれが大切にしている「評価の構造」を見せ合えば、答えがひとつじゃなくても、一緒に考えることができる。
🔄4|自分の評価観を見直してみた
私は「公平に見えること」を信じて、ルーブリックを使ってきた。
でも、生徒が「やらされてる」と感じていたなら、それは本当に支援だったのか?
ただ「できた/できない」を分けていただけじゃなかったか?
評価って、“何を見るか”だけじゃない。
“どう見ようとしていたか”を、ちゃんと考え直さないといけないのかもしれない。
🌱まとめ|評価は「組み合わせの選び方」
ルーブリックがいいか悪いか、ではなくて、
どう設計して、どう使うかがすべて。
そして、その選び方には、
「私はどんな教育を信じているのか?」という気持ちがちゃんと入っている。
次は、こうした分解をふまえて、じゃあ「その先のかたち」をどうつくるか?
——評価の“再設計”の話に進んでいく。
🔧第3幕|評価を「一緒につくる」ためにできること
——評価を、“結果” じゃなくて、“対話の場” にするには?

模擬裁判のあと、私は考えた。
「ルーブリックって、本当にこれでよかったんだろうか?」
でも、全部を否定する気にはなれなかった。
肯定派が信じていた、「評価は学びの支えになる」という言葉も、
否定派が抱えていた、「評価が自由を狭めてるかも」という感覚も、
どちらも本当だと思えたから。
じゃあどうするか。
私は、「ルーブリックそのものを捨てる」のではなく、
もっと “開いたかたち” に作り直すことを考えた。
🧭1|名前から変えてみる:「共創ルーブリック」
まずやったのは、「名前」を変えることだった。
これまでのルーブリックは、教師が作って、生徒に渡すものだった。
でもこれからは、一緒に作る評価にしたい。
それを私は、「共創ルーブリック」と呼ぶことにした。
「何を大事に見ていくか?」を、生徒と話しながら決めていく評価
これは「評価を甘くする」という意味ではなく、
「どんな学びを大切にするか?」を、
言葉にしていく練習でもある。
🏗2|ルーブリックの中身も“開いて”設計する
評価って、5つの要素でできている。
それを、次のように 「固定するところ」と「開くところ」に分ける ことにした。
🎯目的(何のために?)
教師が明確に伝える
例:「これは、自分の考えの構造を見えるようにして、振り返るための評価です」
目的はブレない「軸」にする。
🔍観点(何を見て判断する?)
生徒と一緒に考えて決める
例:「問いの面白さ」「構成の工夫」などを生徒自身が提案
いくつかの例を見せながら、そこから一緒に作ることもできる。
⚙尺度(どう評価する?)
教師がテンプレートを用意
例:4段階の記述つき(レベル1〜4)
観点が変わっても、尺度の形がそろっていると安心感がある。
🧑🏫主体(誰が評価する?)
分担する形にする
① 自分でふりかえる
② 友達に見てもらう
③ 教師がコメントする
この「3つの視点」で見てもらえると、
「評価される」じゃなく「使える評価」になる。
💡価値観(どんな “よさ” を大事にする?)
授業の中で自然に共有する
例:「どうして “独自性” が大事なのか?」
「正しさと自由、どっちも大事にするにはどうしたらいい?」
ここがちゃんと話されてないと、評価は “納得できないもの” になってしまう。
こうやって、「決まってる部分」と「一緒に作る部分」を分けることで、
評価が “与えられるもの” じゃなく、“一緒に意味をつくるもの” になる。
🔁3|フィードバックも「点数」じゃなく「変化の流れ」を見る
ルーブリックって、よく「レベル3」とか「B評価」とか言うけど、
人の成長って、そんなカクカクしたものじゃない。
だから私は、こんなふうに変えてみた:
今、どこができてる?
前と比べて、どこが変わった?
次はどこを工夫したい?
この3つをセットにしたコメントを書くようにしたら、
生徒たちは「評価」を “成長の地図” として使うようになった。
🔄4|評価って、「問い直す場」だったんだ
前は、評価って「できた/できない」を決めるものだと思っていた。
でも今は違う。
評価って、 「今どんな問いがあるのか?」 を見つけるチャンスなんだ。
ルーブリックも、学びも、完成形じゃない。
今のかたちをきっかけにして、“次” を考えるための道具 だったんだ。
🧩5|対立ではなく、“対話する構造” へ
ルーブリックをめぐる意見って、
実は「良い vs 悪い」じゃなくて、
「どんな構造で評価をしてるか」の違いだったのかもしれない。
たとえば:
「管理的すぎる」⇔「指針として役立つ」
→ 構造を使って、自由を育てることはできる「教師が評価する」⇔「生徒が評価される」
→ 教師も生徒も、評価を一緒に“使う”仲間になれる「正解に合わせる」⇔「個性を大事にする」
→ 自分の考えを、どう伝えるかを学ぶことができる
🌱そして次の問いへ:
「評価って、誰と一緒に、何を見ようとする営みなんだろう?」
模擬裁判の評決は、まだ出ていない。
でも、私の中ではもう答えが見えてきた。
評価とは、点数やラベルをつけることじゃない。
それは、「どんな学びを信じているか」を、一緒に探すことなんだ。
🎭終幕|答えはまだ出ないままでいい
——評価って、「正しいかどうか」より、「問い続けること」なんじゃないか。
模擬裁判から何日かたって、私はまた一人で会議室にいた。
蛍光灯の白い光も、机の並びも、前と何も変わらない。
でも「評価」という言葉の感じだけが、なんだか前と違っていた。
🧩1|結論は出なかったけれど、それが正しかったのかもしれない
模擬裁判では、結局「有罪」か「無罪」かの評決は出なかった。
でも今は、それでよかったと思う。
評価って、「一回決めたら終わり」じゃなくて、ずっと問い続けることだから。
もしあのとき、白黒はっきりつけていたら、
私たちはもう、「評価ってなんだろう」って考えなくなっていたかもしれない。
🔄2|評価される不安、評価する側の思い込み
今まで私は、ずっと「評価する側」だった。
でも被告人になってみて、評価されるって、こんなに無防備になることなんだって思い知った。
そして同時に、評価することは “力を使うこと” でもあると気づいた。
「ちゃんと見てるつもり」だった。
でもそれは、自分に見えてる範囲だけ を見てたのかもしれない。
🧠3|評価って、「学びを言葉にする」ための対話なんだ
再設計モデルを考えている中で、ふと気づいたことがある。
評価って、「できた/できない」を決めるためじゃなくて、
「どんな学びがあったか」を一緒に言葉にしていくためのもの なんじゃないかって。
ルーブリックも、観点も、点数も、ただの枠じゃない。
それは、生徒と私とで「いま、何を大切に見ているか」をすり合わせる 言語なんだ。
もちろん、うまくいかないこともある。ずれたり、誤解されたり、伝わらなかったり。
でも、それもふくめて“対話してる”ってことなんだと思う。
🌱4|問いは、まだ続いている
裁判が終わった日の帰り際、生徒会長の柚月さんがこんなことを言った。
「先生、“枠に合わせる” って悪いことじゃないと思うんです。
でも、その枠を一緒に作れるなら、私はもっと考えられる気がします。」
そのひと言に、私はハッとした。
ルーブリックは「与えるもの」じゃない。
一緒に編み直していく“問いの織物” なのかもしれない。
✨まとめ|思好の科楽からのことば
これは、「思考の科学」じゃなくて、「思好の科楽(しこうのかがく)」だからこそ書けた話。
評価にたったひとつの正解なんて、たぶんない。
でも、評価のかたちには “構造” がある。
その構造には、私たちがどんな学びを信じたいか、どんな世界をつくりたいかがにじんでいる。
「よい評価」とは、点数の正確さじゃない。
学びを愛する気持ちが、ちゃんと伝わることかもしれない。
だから、私はこの問いだけは、手放さずに持っていたい。
評価とは、誰と、どこで、何を共有する営みなのか?
いま、あなたは誰かを——あるいは自分自身を——どう評価しているだろうか?
評価って、「自分が何を信じているか」に気づくための鏡でもある。
そしてその鏡を一度壊して、また組み立て直す体験は、
評価の “被告人” になってみたからこそ、できたことだった。
これで “裁判編” はひとまず閉廷。
でも、評価の再設計は、いつだってまた始められる。
あとがき

20年ほど前、わたしは所属する学校法人が設置する学校の一つで、情報教育の講義科目と演習科目を受け持っていた。
学生の提出物、成果物、発表、試験など、できるだけプロセスと達成度を組み合わせた評価方法を試行錯誤していた。
その中の一つのこのルーブリック評価もあった。
また今や当たり前となっている学生からの授業評価も受けていた。
ただ、どれもしっくりこない。
教育の評価ってなんだろう?
もちろん、成績はつける必要がある。
点数に応じで、S,A,B,C,F、
あるいは優・良・可・不可を付けて教務に提出する。
公平・公正な基準としてはやむを得ない。
ただ、授業の中で感じた、
子どもが学びの中で、パッと輝いた瞬間や、
言葉や数字では表せない成長に、
”評価”という基準を当てはめることに、
いいようのないもどかしさを感じていた。
いまや学校自体が評価される。
自己評価や外部評価を求められる。
ランキングもつけられる。
ただ、”評価の仕方” 、”評価の在り方” 、”評価の見方” って、
実は、みんなちゃんと理解しているのだろうか。
そもそも何を問われているのか、何を問うのか を
評価する・評価される関係者のみんなで、
頭を寄せ合って考えることは、
AIが発達する社会では無駄ではない気がする。
そんな思いから、今回のコラムは執筆してみた。
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
🧭 読んだあと、あなたの中に“新しい見方”がひとつ芽生えるような。そんな記事をお届けできたらうれしいです。
📮 感想や応援メッセージ、いつでも大歓迎です!
いいなと思ったら応援しよう!
「クリエイティブの世界へようこそ!」
創造・表現することが好きで、日々新しいものを生み出しています。応援が次の創作の力になります!