「推しができる人、できない人の違い学」——”推し”という名の寄り道:熱狂できない私の情動地図 【コラム】思好の科楽(その91)
🧠 このコラムで学べる、3つのこと
「推し」とは、自己と他者をつなぐ“見守りの関係”であること
──推しは単なる偶像崇拝ではなく、日本的な「八百万の神」や「祀り」の感覚に近い。誰かを推すとは、遠くから見守り、変化を共に喜ぶ “間接的な愛” のかたちである。推しが「できる人」「できない人」は、優劣ではなく感情構造の違いであること
──推しの発生には、〈投影〉〈感受性〉〈距離感調整〉〈継続性〉という4つの因子が関係する。推せる人は “外部に意味を託す” 傾向、推せない人は “内面で物語を完結させる” 傾向を持つ。推しという文化は、現代社会における“孤独の処方箋”であること
──情報過多で心が摩耗する時代に、「誰かに熱中すること」は希少な精神活動。推しを通じて、感情が再び動き、人は自己肯定を回復していく。
序章|「推し」とは何か? 〜定義の再構築〜
── 推しがいない私が、それでも知りたかったこと

「推しかぁ、特にないんだよね。」
そう言うたびに、どこか申し訳なさそうな空気が漂うのを感じる。
まるで「何か大事なことを欠いている人」「人生を存している人」として、自分が扱われているような。
ただ、正直に言えば、私自身もその感覚をどこかで持っていた。
SNSを開けば、「尊い」「無理」「一生推せる」といった熱量あふれる言葉たちがタイムラインを彩る。
それは、ただのファンではない。「推し」という言葉には、もっと濃密な関係性があるようだ。
でも、どうして私は、それを持てないんだろう?
推しができる人と、できない人。いったい何が違うのか?
🔍「推し」はなぜ “個人的” で “社会的” なのか
「推し」とは、単なる好みや趣味ではない。
それは、自分の感情を誰か(何か)に預ける ことではないか?
期待、理想、傷、希望。そういったものを ”推し” に託して、遠くから “見守る” 関係だ。
この構造を考えたとき、「推し」はどこか日本的な感性に似ていると感じた。
それは、絶対的な存在に跪く “崇拝” ではなく、どこか未完成なものを、そっと “祀る” ような関係。
「八百万の神」や「妖怪」など、完璧でない存在に意味を見いだし、共にある日本人の感覚。
「推し」とは、遠くにある “祈りの対象” でありながら、
同時に “わたし” という存在を映す鏡のようなものなのかもしれない。
🧩なぜ推しが「できない」のか?
本コラムでは、推しができる人・できない人の違いを、
心理的、文化的、さらには数学的な構造として考えてみる。
「$${推し=A×B×C×D}$$」という因数分解モデル。
A:理想を投影できる力
B:他者に感動できる感受性
C:適度な心理的距離の保ち方
D:継続して関わる意志やエネルギー
これらのどこかが欠けていると、推しが生まれにくくなるという仮説。
でも、それは “欠陥” ではない。
推しがいないということは、単に別の心の構造をしているというだけだ。
違う回路、違う生き方。そこに意味を与えたい。
✨このコラムで目指すこと
また、これは「推しができない私」が、
“推し” という現象を通して、自分を理解しなおそうとする試みだ。
誰かに熱中できることの美しさを学びながら、
熱中できないことの意味も見つけていきたい。
この社会のなかで、「推し」という言葉がここまで根付いた理由。
それは、私たちが孤独で、でも誰かとつながりたいと願っているからではないだろうか。
その願いのかたちとして、「推し」は現れたのだ。
次章では、推しが “自然にできる” 人たちの心の構造を考察したい。
共感性・投影性・距離感・継続性の4因子が、どのように機能しているのか——
推しとは、どんな風に “芽生える” ものなのかを、探っていく。
第1章|推しが「できる人」たちの内的構造
── なぜ、あの人はあんなに自然に “推せる” のか?

「また新しい "推し" ができた!」
そう話す友人は、いつも嬉しそうだ。まるで心にもうひとつの人生が芽生えたような、
日常のすき間に明るい色を差し込むようなエネルギーを放っている。
私はうらやましく思う。
同じようにその存在を見ているのに、私には「推す」という感情が生まれない。
ただ眺めるだけ。感心はするけど、心が溶け込むような感覚は訪れない。
🧠 推しを生む「4つの因子」
推しとは、いくつかの心理的条件が整ったときに芽生える。
それを次の4つの因子で因数分解できると仮定した。
A:投影可能性
理想や願望を「誰か」に重ねる力。
自分がなれなかった姿、なりたい姿を、推しに託せるかどうか。B:感受性
他者の小さな変化に心を動かされる柔らかさ。
涙もろさや共感力の強さとつながっている。C:距離感調整力
近づきすぎず、遠すぎず、心地よい距離を保てる能力。
「触れられない相手」であることすら、愛おしいと思える感性。D:継続性
愛情や関心を長期的に維持する力。
日々のルーティンや儀式のように、「応援し続ける」ことができる意志。
この4因子の掛け算が、その人にとっての「推し体験」の強度を決める。
$${f_{Oshi}=A×B×C×D}$$
🌱 推しができる人の特徴
推しが自然にできる人は、次のような心理的特徴をもっていることが多い。
心が他者に “開かれている”
共感したり、影響を受けたりすることを怖れない。
「この人すごいな」と思った瞬間に、もう心の中にその人が住み始めている。“未完成な存在” を愛せる
推しは、完璧ではない。だからこそ応援したくなる。
そこに「自分の願い」を重ねていける余白がある。応援することで “自分が育つ” と知っている
推しが頑張る姿に、自分も背中を押される。
投資した時間や気持ちが、自己肯定感となって返ってくる。
🔍 推しは “もうひとりのわたし”
推しとは、外の世界に置かれた「もうひとりの自分」だ。
自分の願望や未完のストーリーを、その人に託して動かしてもらう。
それは、“育てる” と “育てられる” が同時に起きている、不思議な関係。
だから推しがいる人は、強い。
誰かに頼っているようで、自分を耕している。
私にはまだ、その感覚がわからない。
けれど、こうして見つめていくことで、少しずつ距離が縮まっている気がする。
「できる人」が持っている構造を知ることで、
「できない私」も、どこかに手がかりを見出せるかもしれない。
次章では、その「推しができない側」の内的風景を見つめてみたい。
推しを持たないことには、どんな心の構造があるのだろうか。
第2章|推しが「できない人」の心理的傾向
── 推したいのに、心が動かない理由

「好きになる」って、そんなに簡単なことだっただろうか。
誰かを「推したい」と思っても、どこかで足が止まる。
その人の努力も魅力も理解しているのに、心が火を灯さない。
「応援したい」と思う前に、「本当にそこまで思える?」と、自分の内側から問われる。
🧩 推し四因子の “ゼロ化”
第1章で提示した「推しの四因子」は、こうだった。
A:投影可能性
B:感受性
C:距離感調整力
D:継続性
これらのいずれかが「ゼロ」に近づくと、「推し」は成立しにくくなる。
例えば──
Aが弱い →「自分の願望を他者に託す」ことに慎重。
理想は理想、自分は自分。混ぜたくない、という姿勢。Bが弱い →共感よりも、分析が先に立つ。
「感動」より「理解」や「観察」を選びがち。Cが弱い →「会えない人」に対して意味を見いだせない。
リアルな接触や関係性がなければ心が動かない。Dが弱い →熱しやすく冷めやすい。
「一時の熱」はあっても、「継続的な推し活」はしんどい。
🧠 自分にしかない “防衛線”
推しができない人は、「鈍感」なのではなく、「慎重」なのだと思う。
心を動かすことに、どこかで用心深くなっている。
傷ついた経験がある
熱中しすぎて後悔したことがある
他者に期待することが怖い
投影することに罪悪感を感じる
これらはすべて、「過去」が生んだ防衛線。
誰かを強く好きになることは、ある意味、無防備になることだ。
それを自分に許せないとき、推しは生まれない。
🌊 クールな観察者としての生き方
推しがいない私は、何かを失っているのだろうか?
たぶん、それは違う。
推しができない人は、感情に流されるより、冷静に自分を見つめていることが多い。
「この人が好きだ」と断言できないぶん、世界との距離感を丁寧に測っている。
それは弱さではなく、ひとつの知性 だ。
信じきれないからこそ、自分で立とうとする強さだ。
「推しができる人」のように生きられたら、もっと楽しいのかもしれない。
でも、私は私の速度で、私なりの仕方で、誰かや何かに心を預ける日を待っている。
次章では、この「違い」はどこから生まれてくるのか――
幼少期や文化、社会的経験の側面から見つめていきたい。
第3章|推しが生まれる条件とは?
── 心が誰かを宿す「その瞬間」

「推せる人」と「推せない人」、この違いはどこから来るのだろう?
性格の違い? 感受性? それとも運?
私自身、「なぜ自分には推しができないのか」と問い続けてきた。
でもそれは、単に努力や気持ちの問題ではない気がする。
むしろ、もっと奥にある「育ち方」や「文化の呼吸」が関係しているのではないか──
そう思うようになった。
🧸 愛着理論という視点:誰かを“好き”になる力の源
心理学には「愛着理論(Attachment Theory)」という考え方がある。
幼いころ、どれだけ安心して「誰か」に寄りかかれたか。
不安になったときに、支えてくれる存在がいたか。
この体験が、
・他者への信頼
・感情を預ける力
・自分の気持ちを表現することへの安心
といった感情の基盤をつくる。
幼少期に十分な愛着形成が得られなかった人は、
「人に気持ちを預けること」そのものが難しくなる傾向があるという。
推しは、ある意味で「心の寄りかかり」だ。
だから、寄りかかることに不安や罪悪感を覚える人にとっては、
推し活という営みは、そもそも成立しにくい。
🔁 社会経験が心の開き方を変える
推しができる人も、ずっとそうだったわけではない。
裏切られた経験、信じたものに傷ついた経験、
または、心を動かす何かに出会うチャンスがなかった人もいる。
「熱中できなかった」ことと「熱中しなかった」ことは違う。
タイミングや環境が違えば、私にも推しができていたかもしれない。
🎎 文化がつくる “推しやすさ”
文化資本(Cultural Capital)という考え方もある。
たとえば──
家族や周囲が「好きなものに夢中になる」ことを肯定してくれるか
推し活にお金や時間を使うことが “恥ずかしくない” と感じられるか
自分の「好き」を、言葉にして発信することが当たり前か
こうした背景が、推しを持つことの「ハードル」を左右する。
社会や文化が「熱狂」を肯定するかどうか。
それによって、私たちの心の開き方は変わる。
💡「推し」とは、希望の社会的契約
私は最近、こう思うようになった。
推しとは、信じることの“リハビリ”かもしれない。
誰かを「好きだ」と思うことは、自分の感情を他者に預けること。
それは、裏切られる可能性も含んだ、ある種の賭けでもある。
でも推しは、現実の人間関係と違って、一歩引いた位置から関われる。
「安全な距離感」で、「信じる」という感覚を再学習する場なのかもしれない。
推しができる人は、「社会と再びつながる回路」を持っている人なのだと思う。
私にはまだ、その回路が完全にはできていない。
でも、誰かを信じてみたいという気持ちは、たしかにある。
次章では、こうした「推し」の感情構造が、
日本社会の文化的背景とどう関わっているのかを考察していく。
そこに、日本人ならではの “見守る感性” があると私は感じている。
第4章|「推し」は祀りであり、見守りである
── 崇拝ではなく、距離をたもつ愛のかたち

私が「推し」という言葉に違和感を覚えたのは、
熱狂的な部分に、どこか宗教的な響きを感じたからだった。
まるで神をあがめるような感情の投影に、戸惑いを覚えたのだ。
けれど、あるとき気づいた。
私が思っていた “崇拝” と、実際の「推し」とは違うのではないか。
🗿 崇拝の文化と、祀りの文化
西洋社会や一神教の文化では、
神は「唯一」で「絶対」で、「超越的存在」として崇められる。
その対象は完成され、完璧で、敬意をもってひれ伏すものだ。
一方、日本ではどうだろう?
私たちは神を「信じる」というより、「祀る」「見守る」。
神社に祀られるのは、必ずしも偉大な存在ばかりではない。
山の神、川の神、火の神、名もなき精霊──
ときにそれらは人にいたずらをし、怒りもする。
不完全で、身近で、そして“共にある存在”として扱われてきた。
「推し」も同じなのではないか。
🧸 推しは、未完成であることに意味がある
私たちが「推す」対象は、いつもどこか未完成だ。
デビューしたばかりのアイドル、これから伸びていくクリエイター、
あるいはストーリーの途中にいるアニメのキャラクター。
“完成されていないからこそ、応援したくなる”。
そこに、祀りや見守りの感性が重なる。
”推しが育つ過程” にこそ喜びを感じるのではないか。
これは、西洋的なヒーロー信仰とも、韓国の「バイアス文化」とも違う。
日本では、すでに完成されたものより、
“これから” を一緒に見届けることに意味がある。
🔔 見守るという距離:干渉しない愛情
また、日本人は「距離」をとても大切にする。
他人に踏み込みすぎない、でも無関心ではない。
その微妙な位置を「見守り」という形で表現してきた。
たとえば──
・神棚は家の高い位置に置く
・手は合わせるけど、話しかけすぎない
・地蔵や道祖神は、そっと掃除をしてあげる存在
推し活も似ている。
直接会えなくてもいい。
グッズをそっと飾り、SNSを静かに見守る。
それだけで、心が満たされる関係なのだ。
🎎 八百万の「好き」に囲まれて
日本には、「好き」がたくさんある。
八百万の神々がいるように、
わたしたちの「好き」も無数に存在してよいのだ。
誰かが「この子を推してる」と言えば、
「へえ、いいね」と自然に受け止められる。
“推し”は、共感の強制ではなく、“多様な信仰” のようなものとして
文化のなかに根づいている。
「推し」とは、たったひとつの対象に熱狂することではない。
むしろ、“私とその存在との静かなつながり” を、
そっと、日常に宿らせる営みだ。
わたしがまだ誰かを「推せていない」のは、
そのつながりの芽が、まだ芽吹いていないだけかもしれない。
まとめ|推しがいなくても、わたしはわたし
── 生き方のかたちは、人の数だけある

この文章を書いているわたしは、
まだ「推し」を持ったことがない。
家族のように穏やかなスキは感じられるが、
誰かを強く好きになること、
その人のために何かをしたくなることが、
どこか遠いものに感じられていた。
でも今、ようやく言葉にできる。
推しがいる人生も、推しがいない人生も、
どちらも「何かを大切にして生きる」という点では同じなのだ。
💠 「推し」は、自己と世界をつなぐ儀式
「推し活」はただの趣味ではない。
それは、自分の内面にある欠けた部分や、
うまく言葉にならなかった想いを、
他者という“鏡”に映して整えていく行為だった。
だからこそ、そこに愛情・距離・時間の三つが必要だった。
愛情:まだ未完成な存在を、信じて支えること
距離:過剰に踏み込まず、そっと見守ること
時間:変化を見届け、続けていくこと
まるで、小さな神棚を心の中につくって、
そこにそっと手を合わせるような行為だった。
🎭 推しを持つ人、持たない人のちがい
振り返ると、推しが「出来る人」には、
他者への投影力や共感性、そして少しの “余白” があった。
一方、推しが「出来ない人」には、
自己完結的な強さ、他者への慎重さ、そして深い洞察がある。
つまり、どちらも違ったかたちの豊かさなのだ。
「推せない」ということは、
他者の物語にのっかるのではなく、
自分自身の物語を、自分で完結させようとしているだけかもしれない。
🧩 推しは “幻想” だけど、“虚構” ではない
推しは「現実」ではない。
けれど、それを心のなかで育て、意味づけることは、
現実をよりよく生きるための“構築的幻想” だ。
何より、”推し” 持つことができる人は輝いて見える。
誰かの存在を通して、
「自分を少し好きになれるようになる」
そんなふうに、推しは自己肯定の装置にもなる。
🌸 そして、わたしもまた、誰かの推しになるかもしれない
「推しがいない」と言い続けていたわたしも、
いつか誰かにとって、
そっと見守られる存在になるかもしれない。
そう考えると、人生の景色が少し変わって見える。
このコラムをここまで読んでくれたあなたが、
「推しって、ちょっと不思議でおもしろいな」
そう思ってくれたなら、
それだけで、このコラムを書いた意味があったように思う。
そしてもし、まだ誰のことも推せていないあなたが、
「それでも、わたしはわたしでいいんだ」
そう思える時間を少しでも過ごせたのなら、
それもまた、このコラムの思いが、ちゃんと届いたということだ。
💬 あなたにとっての“推し”とは、どんな存在ですか?
🪶 コメント・スキ・フォローで、あなたの声を聞かせてください。
📘このコラムは、ChatGPTとの対話を通じて執筆されました。
「AIとの対話は、思考を深めるための鏡になるのか?」という実験の一部でもあります。
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒中京地区の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
🧭 読んだあと、あなたの中に“新しい見方”がひとつ芽生えるような。そんな記事をお届けできたらうれしいです。
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「クリエイティブの世界へようこそ!」
創造・表現することが好きで、日々新しいものを生み出しています。応援が次の創作の力になります!