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自閉症のB型利用者がフリーランスになるまで

私は、“普通”を演じるのが得意だった。
でも、それは“私”じゃなかった。

演じることに慣れすぎて、本当の自分を忘れていた。

これは、「普通」を手放し、「自分」として働ける場所を見つけた私の物語。

ここに、私の半生を綴る。

1.「おとなしくて良い子」と呼ばれて

私は、静かだった。

「いい子ねえ」「ほんとに手がかからない子だわ」

そんなふうに、よく言われた。
祖父が入院していた病院で、私は何時間も飽きずに静かに座っていられた。
他の子がぐずったり泣いたりするなか、私はただ黙って、ただそこにいた。

それは、大人たちにとっては”とても良い子”に映ったらしい。

でも私は、我慢していたわけでも、気を遣っていたわけでもない。
ただ、そういう子だったのだ。
静かにしていることが、苦ではなかった。
むしろ、空想の世界に没頭する時間が、心地よかったのだ。

一人遊びが好きだった。

お人形やブロック遊びも好きだったが、私は空想の中に登場人物を思い浮かべて、頭の中でだけドラマを展開させていた。
外に遊びに行くこともほとんどなかったし、出る必要もなかった。

想像だけで十分に満たされていたから。

友達もいたけれど、どこか自分と似たような空気をまとった子とばかり遊んでいた。
騒がしい子の中に入るのは、ちょっと疲れる。

そんな私は、国語辞典を読むのが好きだった。
マンガもそれなりに読んだけれど、言葉を眺めているほうが落ち着いた。

見知らぬ単語をめくっていくと、解説のなかで、また私の知らない言葉に出会う。
なんだか違う世界が広がっているような気がして、わくわくした。

今思えば、かなり風変わりだったかもしれない。
でもその「不思議さ」こそが、私という人間の原型だったのだと思う。

静かで、穏やかで、でもどこか現実とは違う場所を見ているような。
そんな子ども時代の私は、誰にも迷惑をかけない代わりに、
“本当の自分”を誰にも見せずに、ただ、いい子として存在していた。

2.社会に出て、挫折して。
「働く」がうまくいかない

あの頃、私たちの就職は「運」だった。
就職氷河期の名残が色濃く残る地方。専門高校を卒業しても、学んだことを活かせる進路などなかった。先生たちが焦っていたのを、今でも覚えている。

そんななか、私は地元のおもちゃ屋に自ら足を運んだ。求人が出ていたわけでもない。
ただ、子どもの頃からの夢だった。

「ゲームが好き」「おもちゃ屋さんになりたい」

そんな素直な気持ちを伝えると、アルバイトとして雇ってもらえることになった。

夢は、すぐに現実になった。

アルバイトから正社員への昇格も早かった。
だがその分、会社の内情もすぐ見えてきた。危なっかしい経営、先の見えない職場。

ブラックとまでは言わないが、明るい未来があるとは到底思えなかった。

そこから、私は仕事を転々とすることになる。
どの職場でも、人間関係に馴染めなかった。
上司の叱責が怖くて、業務が頭に入らなかった。
誰かと話すたびに、自分の言葉が間違っている気がして、どんどん声が出なくなっていった。

働くって、なんだろう。

社会人って、どうやってなるんだろう。

気づけば、先に心が壊れていた。
短期間ではあったが、ひどいうつも経験した。そして、その後も消えない自殺念慮に静かに取り憑かれたまま、20代の後半を迎えることになる。

そんなある日、仕事のつきあいで初めてスナックという場所に足を踏み入れた。
それが、私の人生を大きく変えるきっかけになる。

3.夜の街。
静かな隅っこからの始まり

初めて夜の街に足を踏み入れたとき、そこはまるで別世界だった。
ひどくうるさくて、店内の角、いちばん隅っこで静かに酒を飲むしかなかった。
酒のにおいとおじさんたちのがやがやした声が騒音のように響く。そんな中で、私は一人、まるで透明人間のように存在していた。

そんなとき、ふと目に止まった一人の女性がいた。
他のキャストと比べて特別かわいいわけでもない、どこか私と似ている気がして、でもなぜか彼女にはキラキラした輝きがあった。

心のどこかで、「あの人なら話せそうだ」と思った。

すると彼女が、私の隣にスッとやってきた。理由を尋ねると、「楽しくなさそうだから」とだけ言う。
彼女の目は真っ直ぐで、内面を見透かされたような気がした。
話してみると、まるで私の心を読み解くように、何でも言い当ててしまう。本当に不思議な人だった。

彼女は私に提案した。

「今度、新しい店に移るんだけど、一緒に働かない?」

私は初め、夜の仕事は人と話す仕事で、自分には無理だと感じていたから断った。でも、連絡先だけは交換した。

その後、仕事はうまくいかず、いつ首を切られてもおかしくない状況に追い込まれた。
生活の苦しさが重くのしかかり、やむなく彼女に連絡を取った。もう、生活のために副業としてやってみようと思ったのだ。

あの騒がしい夜の街の隅っこで、私は新しい自分の一歩を踏み出した。

4.テキトーな生き物との共存。
そして、私は「人と渡り合う術」を手に入れた

最初のうちは、ほんとうにやっていけるのか不安でいっぱいだった。
話しかけようにも声が出ないし、笑顔すらぎこちない。

けれど、目の前に座る大人たちは、私がこれまで出会ってきた「ちゃんとした大人」とはまるで違っていた。
酒を飲んで、くだらない冗談を言って、女の子にさりげなく触れようとする…。

そんな“テキトーな生き物”たち。

正直、はじめは嫌悪感があった。だけど、彼らは気前よくお金を落としていってくれる。
だったら、気持ちよく帰ってもらえれば、それでWIN-WIN。
そう思えるようになったのは、たぶん、自分の中の何かが少しずつ変わっていった証なのだと思う。

その頃、副業は本業になっていた。

私には、言葉遊びのセンスがあった。冗談も、ちょっとした切り返しも、気がつけばお客様たちのツボにうまくはまっていた。

国語辞典を読んでいた子ども時代が役に立った瞬間。なんとも不思議な因果だろうか。

気づけば私は、テキトーな人間たちを“適当にあしらう”術を、身につけていくのであった。

そしてその術は、ただの接客技術なんかじゃなかった。
空気を読みすぎて苦しんできた私が、初めて「人と渡り合う」という感覚を、身体に刻む過程だったのだ。

5.外仕事と、はじめての「楽しい仕事」

夜の店が、静かに幕を閉じた。
2年ほどの経験だっただろうか。

人生で初めて、自分の意思とは関係なく職を失った。けれど、なぜか落ち込むよりも、少しだけホッとした気がした。

そろそろ次の世界を見てみてもいいかもしれない、そんな風に。

転機は、思わぬところからやってきた。店の常連だった、ある小さな会社の社長が声をかけてくれた。

「力なんかなくても大丈夫だよ。ちょっとやってみない?」

紹介されたのは、塗装の仕事だった。

「力なんかなくても」なんて、ぜんぜん嘘だった。塗料の缶はずっしりと重く、塗装用の機械は到底ひとりで運べるような代物じゃなかった。
でも、そんなことより何より、“外で働く”ということが、私の中に新しい風を通してくれた。

太陽の下で汗をかく。風に吹かれる。手が汚れる。

それだけのことで、不思議と心は軽くなっていった。

さらに、塗装の現場つながりで林業も紹介された。

チェーンソーの音がこだまする山の中。
不器用で、口の悪い先輩たち。でも、誰一人、私を責めたり否定したりしなかった。
やる気があればいい。そういう空気の中で、私はじわじわと「自分のままでいても大丈夫なんだ」と思えるようになっていった。

毎日が日雇い。保証も安定もなかったけれど、それでも「楽しい」と思えた。

「正社員じゃないとダメ」
そんな言葉は、誰かに刷り込まれた呪いだったのかもしれない。

私はこのとき初めて、「働くこと」が、誰かの期待に応えるためじゃなく、自分のリズムで生きるための手段になっていく。そんな実感を、ほんの少しだけ、持ち始めていた。

6.コロナ、そして、崩壊へ

世界が止まったあのとき、私の働いていた現場も閉ざされた。
仕事が消え、時間だけが手元に残る。
それは、ふいに訪れた静かな機会だった。

ずっと気になっていた「発達障害」という言葉。
どこかで自分の輪郭がずれている気がしていた。
このままではいけない。でも、どうすればいいのかわからない。
そんな曖昧な焦燥を抱えて、私は検査を受けた。

自閉症スペクトラム。それが私についた新しい名札。

ああ、そうだったのか。
あれほど探しても見つからなかった“自分の取扱説明書”を、ようやく受け取った気がした。

驚きよりも納得が勝っていた。
それは、長い間、背負い続けていた重い荷物をどさりと地面に落とすような感覚だった。

私は、“普通のふり”をして生きてきた。
ずっと、無理をしていた。
でも、もう…しなくてもいい。

そこからの私は、障害者雇用を探した。
けれど、条件に合う職場はなかなか見つからなかった。
求人票を見るたびに、どこか違うと感じる。

そんなとき、支援施設の方が一件のスーパーを紹介してくれた。
「一般パートだけど、障害に理解のある店長がいる」と。

面接で店長は、私の診断名にも特性にも、まるで関心がないかのように笑って言った。

「働いてみないか?」

その一言が、うれしかった。
まるで、“ただの私”として見てくれたようで。

配属されたのは、精肉部門。
淡々と、黙々と、同じ作業を繰り返す日々。
私にはちょうどよかった。

責任も少なく、静かな環境。
直属の上司とも歳が近かったからかウマが合い、私は気づけば職場で笑うことも増えていた。

あの、夜の街で培った“対人スキル”が、意外なかたちで活きていた。
テキトーな大人たちを適当にいなしてきた私には、この世界は少しだけやさしかった。

けれど、幸福の時間はそう長くは続かなかった。
それは、ほんの些細なできごとから始まった。

7.「壊れた私」に与えられた、
300日という猶予

大きな音が苦手だと、雑談のなかで話した記憶がある。
その日を境に、職場の空気が少しずつ変わっていった。

最初は、からかい半分の大きな声だった。ビクッと反応する私を見て、上司は笑っていた。
何かがおかしいと思いながらも、「まあ、気にしすぎかもしれない」と、自分をなだめるように日々をこなしていた。

ある日、私は背中を向けて作業をしていた。
突然、耳元で風船が割れる音がした。破裂音が頭の奥に刺さる。

世界が一瞬、真っ白になる。

体が硬直して、呼吸がうまくできなかった。だけど、その後も何度か風船は割られた。
2度、3度……。回数なんて、もうどうでもよかった。ただ、何かが壊れたのを感じた。

それからの記憶がない。
ただ、気がつけば私は“無視”される側になっていた。

上司が私の存在をなかったことにする。視線を向けず、声をかけない。
私は「きっと私が悪いんだ」と思って、何度も謝るタイミングを探した。

だけどそのタイミングは永遠に来なかった。
ある日、理由も告げられないまま、違う部署に飛ばされた。

心が、ぽきん、と音を立てて折れた気がした。
何をどうして辞めたのかも覚えていない。私は、職場を離れていた。

そんななか唯一、私を現実に引き戻してくれたのは、「失業手当300日分」だった。

私は、壊れていた。
でも、300日という時間を手にした。
それは、初めて与えられた「立ち止まる自由」だった。

8.B型作業所との出会い

動ける日は、仕事を探していた。
失業手当は、働く意思のある者に与えられる制度。だから私は、ギリギリの体を引きずり、ハローワークに顔を出す。それだけで、一日の体力はすべて消えた。

病院に相談すると「B型作業所もあるよ」と言われたが、そのときの私には、選択肢にならなかった。
B型作業所とは通称で、正式な名称は「就労継続支援B型事業所」。
いわゆる福祉的就労施設のことだ。

生きていくにはお金が必要。最低時給にも満たない場所に、自分を置く勇気が出なかった。

とはいえ、体は重く、心は沈み、動けない日が続いた。おそらく、300日のうちのほとんどを、私は布団の中で過ごしていたと思う。
焦りが本格的にやってきたのは、100日を切ったあたりだった。

「このままじゃ、本当に死ぬしかない」

そう思う日々の中でも、ただ一つ、私を生かしていた思いがあった。

「親より先に死ねない」

親を悲しませたくない、ただそれだけが、かろうじて私をつなぎとめていた。

ある日、障害年金の申請について相談をするために、基幹相談支援センターを訪ねた。この施設のことは、別の支援機関から何度か聞いていて興味があったから。

正直、不安だった。でも、今思えば、あの日あそこへ行ったことが、人生を繋ぎなおす大きな一歩だったのだと思う。

そこにいたのは、「福祉に熱い男」だった。

今まで出会った誰とも違う、真正面から向き合ってくれる大人だった。私はその人に、はじめて少しだけ、人に頼ってみようと思えた。

そして紹介されたのが、IT特化型のB型作業所だった。

9.Webライティングとの出会い。
自分自身の再発見

福祉施設と言えば、箱折りや袋詰めなど単純作業を黙々とこなすイメージだった。

しかしこの作業所は何かが違う。
ここでは「みんなで同じ作業をするわけじゃない。自分のペースで、好きな仕事をしていい。何をしてもいい」と案内された。

そんな言葉が胸に深く染みた。

一緒に見学に行った基幹相談支援センターの担当者も、「私に合っているだろう」と直観的に感じたそうだ。
施設は少しにぎやかではあったが、一人の時間もしっかりとれる環境。
動画編集やイラストの仕事で工賃を得ている利用者もいて、ここならスキルを磨いて独立できると理解した。

「何をやってもいい」というスタンスは、「好きなことを仕事にしよう」ということ。私には夢も目標も空っぽだったが、この言葉が少しだけ心を動かした。

特にWebライティングには以前から興味があった。文章を書くことは少し自信があったし、これまで契約書の作成や保険約款の読み込みなどで鍛えられた小難しい文章力も活かせるかもしれないと思った。

利用を決めて申請し、約1ヶ月で利用開始。初日、職員に「何をやってもいいよ」と言われ、戸惑った。
指示されて動くことに慣れてしまい、自分で考えて動くことが怖くなっていたのだ。

それでもWebライティングに挑戦すると決め、まずはタイピング練習から始めた。

毎日4時間、ひたすらキーを叩く。

すると支援員から「記事を書いてみようか」と声がかかり、2000字の記事に取り組んだ。
初めての仕事は不安でいっぱいだったが、納品すると「面白い文章を書く人」と評価された。

こうして指示待ちだった私が、少しずつ自分のペースで考え、動き、仕事をする感覚を取り戻していったのだった。

同じくこの頃、障害年金の申請も無事に通り、私はなんとか生活の基盤を手に入れた。

10.講師として“伝える側”になる。
初めての授業と緊張

施設に通い続ける日々が2年経過し、同じくWebライターとしの経歴も2年目に入ったころのこと。
クラウドソーシングでなかなか案件が取れずに悩んでいた私に、支援員からある話が舞い込んだ。

「ライティングスクールで講師の仕事があるけど、応募してみない?」

正直、戸惑いが大きかった。なにせ、自分のライティング案件をいまだ一つも獲得できていない状況。
そんな自分が人に教えるなんて、想像もつかない。

しかし、支援員からは、

「あなたのスキルなら十分やれる。ここで学んできたことを伝えればいい」

と言われ、思い切って応募。すると、意外にもすんなり決まってしまう。

初めての授業はオンライン。知らない人を前にして話すことに、強い緊張を覚える。教える立場になるのも初めてで、不安は募るばかり。

だけど、結果は、過去の経験が私を支えてくれた。
夜の街で鍛えられた“人と話すスキル”は、ここでも大いに役立った。
知らない人とでも自然に談笑できる力があったから、なんとか乗り越えられたのだ。

授業が進むにつれて、少しずつ自信がつく。そして何より、私の言葉や体験が誰かの心に届いていると感じられた瞬間は、これまでの苦労が報われる思いだった。

講師として“伝える側”になったことで、自分の生きてきた意味の一部が見えたような気がした。

11.自分らしく働く未来へ。
38歳、私のこれから

今、私は38歳。
B型作業所でWebライターとして働きながら、講師としての仕事も少しずつ広げている。

2026年の春、私はフリーランスとして独立する予定だ。

かつては「会社に行けない自分なんて」と自分を責め、社会からも取り残されたような気がしていた。
けれど今は違う。もう「普通」に無理して合わせる必要はないのだと、ようやく心から思えるようになった。

“自分として生きられる場所”は、ちゃんとあった。

働くことがしんどい、職場に居場所がない、人と同じようにできない。
そんなふうに苦しんできた人に伝えたい。

障害者雇用や支援の現場には、まだまだたくさんの課題がある。形式だけの配慮や、形骸化した制度も多い。
でも、それでも確かに、自分のペースで、自分の力を活かして生きていける場所はある。私が今いるこの場所のように。

だから、これからも書き続けたいと思う。
自分の言葉で、過去の自分のように立ち止まっている誰かの背中を、そっと押せるように。

それが、私がここまで生きてきた意味になると、信じている。

12.さいごに

「生きづらさ」は、誰かと比べることで生まれる。
でも、「生き方」は、誰かに合わせる必要なんて、本当はどこにもない。

私は長い間、「普通」になろうとして苦しんできた。
でも今は、自分の“普通”を肯定できる場所に出会えた。
無理をしない働き方、素のままの自分を受け入れてくれる環境。
そんな奇跡のような出会いに、心から感謝している。

このエッセイは、同じように生きる場所を見失っている誰かへ、
そして、かつての私自身へ向けての手紙。

「もうだめだ」と何度も思った。
「ここにいてはいけない」と何度も感じた。
でも、どれだけ立ち止まっても、諦めなければ歩き出せる。
その歩幅は、他の誰かと比べなくていい。
あなたにしかない歩き方で、ちゃんと前に進めるから。

この文章が、たったひとりでもいい。
誰かの背中を、ほんの少しでも支えられたのなら。
私がここまで生きてきた意味が、また一つ報われる気がします。

そして最後に、創作大賞2025というチャンスに、この作品を届けられたことに感謝しています。
受賞できたらもちろん嬉しい。
けれど何より、この作品が「ここに生きているひとりの声」として、
誰かの心に残ってくれたなら、それが私にとっての本当の“賞”です。

読んでくださり、本当にありがとうございました。

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