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京都を救った若き天才 - 田邉朔郎

明治維新後の衰退に直面した京都を救うべく計画された琵琶湖疏水事業は、当時の北垣国道知事による大胆な決断から始まりました。知事は外国人技師に頼る当時の慣習を打破し、若干21歳の田邉朔郎(たなべ さくろう)を主任技師に抜擢するという異例の人事を行いました。

資料がなかったので ChatGPT Images 2.0 で作成。事業規模の大きさに驚きます。

北垣国道知事が、田辺朔郎を琵琶湖疏水事業の主任技師に抜擢した理由は、以下の3点です。

1. 卒業論文での緻密な計画案と説明能力

田辺は工部大学校の学生時代、自らの足で歩き回って地形を徹底的に調査し、緻密な計算に基づいた「琵琶湖疏水工事計画」を卒業論文として詳細にまとめ上げていました。工部大学校の大鳥圭介校長から紹介されて北垣知事と面会した際、田辺は執筆中の論文を見せながらその内容を澱みなく説明し、その能力の高さが知事の目に留まりました。

工部大学校(こうぶだいがっこう)は、明治初期(1877年設立)に工部省が設置した、日本初の官立高等技術教育機関です。英国人ヘンリー・ダイアーを招き、土木、機械、電信、造家(建築)などの技術を教育、辰野金吾らを輩出して後の東京大学工学部へと発展した、近代日本のインフラを支えた技術者養成の礎となった機関です。

工部大学校

2. 「日本人だけで大事業を完成させる」という志

明治初期において大規模な公共事業は外国人技師の指導を仰ぐのが通例でしたが、北垣知事は「日本人だけの力で工事を完成させたい」という強い願いを持っていました。田辺の論文の完成度の高さとその熱意は、外国人技師に頼らず自立した技術大国を目指していた北垣知事の思いを大きく動かすものでした。

3. 困難に打ち勝つ不屈の根性と気骨

田辺は卒論執筆のための測量中、右手中指に削岩機を落とし骨折する大怪我を負ってしまいます。しかし、右手を吊ったまま左手だけで精緻な製図を描き、論文を完成させました。この姿を見た大鳥校長が「これだけの根性の持ち主なら、どんな難工事もやってのけるはずだ」と太鼓判を押して推薦し、北垣知事も田辺の持つ気骨に深く心を打たれました。

なお、これらの田辺自身の優れた資質に加え、北垣知事が当初招聘する予定だった内務省のベテラン技師(安積疏水建設の主任技師・南一郎平)について、「一地方の工事に重要人物を貸すわけにはいかない」と内務省から断られてしまったという事情も、若き才能への大抜擢を後押しすることになりました。

ChatGPT Images 2.0 で作成

田邉は科学的根拠に基づく緻密な設計と、シャフト工法などの革新的な技術を駆使することで、日本人のみによる大規模な近代化工事を成功へと導きました。この事業によってもたらされた電力や水運は、京都を近代産業都市として再生させる大きな原動力となりました。100年以上を経た現在も、この水路は先駆的な自立技術の象徴として街の基盤を支え続けています。

琵琶湖疏水殉職者弔魂碑

蹴上インクラインのそばに「琵琶湖疏水殉職者弔魂碑」があります。
事業の主任技師を務めた田邉朔郎が、自費を投じて建立しました。


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