【短編小説】出囃子(でばやし)が聞こえる
名古屋・大須に山本竜次という男が住んでいた。
高校を中退した後は一度も定職に就かず、いつも繁華街をうろつくような生活で昼間はギャンブル、夜は酒場という毎日だった。
ケンカも日常茶飯事で、何度警察の世話になったかわからない。家族から仕をしろと言われても、聞こうともしない。
普通の社会人になって欲しいと誰もが願っているのだが、皆諦めかけていた。
そんな竜次が、大須商店街をぶらりと歩いていた時のこと。
どういうわけか足が勝手に大須演芸場の方へと動き、吸い込まれるように中へと入っていったのだ。
席に座って周囲を見まわすと観客は、まばらだった。
「盛り上がらねぇな」と竜次はガムを噛みながら足を組み一人でぼやいていた。
しばらくすると出囃子が鳴り、一人の小柄な落語家が小さくお辞儀をして高座へと上がった。
さほど有名な落語家ではなかったが、寂しい観客席にむかって水が流れるように噺を始めた。落語家の額からは徐々に汗が噴き出し、噺は熱を帯びてくる。
扇子や手ぬぐいを巧みに使いソバを食べたり帳簿に記したりと、まさに職人芸。
名調子で噺が流れるように展開する。
この噺をきいているうちに竜次の中の何かが変わった。
噺にのめり込み最後には鮮やかな話芸に衝撃を受けていた。
「お後がよろしいようで」
その落語家が手をついて深々とお辞儀をした時、竜次の目には光るものが。
生まれて初めて人の話を聞いて心が動かされたのだ。
落語家が高座を降りても竜次は席から立ちあがることさえできない。
たった数名のお客さんでも手を抜くことなく全力で演じる姿に竜次は心から感服していた。
その翌朝、竜次は大須演芸場にいた。
昨日の終演後、楽屋出口であの落語家に弟子入りを申し込んだ。
その落語家は「明日の朝からおいで」とにっこり微笑んでくれたという。
